
夢の中で、知世は母と並んで座っていた。
居間の座卓。卓の上には、海苔の黒い一本がふたつ。母は何も言わずに、片方を両手で持ち上げた。そして、少しだけ体をずらして、知世とは違う方角を向いた。
知世も、自分の一本を持った。どちらを向けばいいのか、わからなかった。母のほうを見ると、母は前を向いたまま、ゆっくりと口を動かしている。
声をかけてはいけない気がした。黙って食べるのが、この日の決まりだったから。
母の横顔に、窓からの光が当たっていた。冬の終わりの、薄い光だった。
母が、ほんの一瞬だけ、目だけをこちらに向けた。それから、持っていない方の手の人差し指で、すっと、ある方角を指した。
――目が覚めると、天井の木目が見えた。実家の、自分が昔使っていた部屋だった。
母が亡くなって、最初の冬だった。
台所に下りていくと、父がまな板の前に立っていた。広げた巻きすの上に、海苔と、酢飯と、具が並んでいる。卵焼き、かんぴょう、しいたけ、きゅうり、桜でんぶ。数えると、五つしかなかった。
「七つ入れるんじゃなかったっけ」
知世が言うと、父は少し考えてから、
「うなぎと、何だったかな」
とつぶやいた。答えは、二人とも知らなかった。毎年、母が用意していたから。
父は、巻きすの端を持ち上げた。具を押さえながら、ぐっと巻く。けれど、酢飯の量が多すぎたのか、海苔の端が合わない。持ち上げたとたん、巻き終わりがぱくりと開いて、中のきゅうりが一本、まな板に転がり落ちた。
父は、黙ってそれを拾って、元に戻した。もう一度巻く。今度は、少しましになった。それでも、母の恵方巻のように、きれいな丸にはならなかった。どこか平たくて、ところどころ、酢飯がはみ出していた。
「切ったら、ごまかせるんだけどな」
父が、包丁に手を伸ばしかけて、止めた。
「切っちゃだめなんだよね」
「縁が切れるから、だったか」
「そう。お母さん、いつも言ってた」
父は、包丁を置いた。
夕方、二人で居間の座卓についた。知世はスマートフォンで、今年の恵方を調べた。
北北西。
画面に出たその文字を、知世はしばらく見ていた。夢の中で、母が指さした方角。あれがどちらだったのか、目が覚めてからはもう、はっきりとは思い出せなかった。それでも、たぶん、こちらだった気がした。
「あっちだって」
知世が窓のほうを指すと、父は「ん」とだけ言って、体の向きを変えた。
二人で、同じ方角を向いた。北北西の窓の外には、隣の家の屋根と、暮れかけた空が見えた。
不格好な一本を、両手で持つ。
一口、かじる。
酢が、少し強かった。かんぴょうは、甘すぎた。母の味とは、全然違った。
黙って食べる。父の口の動く音が、すぐ隣で聞こえる。壁の時計が、こち、こち、と鳴っている。台所で、冷蔵庫がうなった。
知世は、母が生きていたころの節分を思い出していた。三人で並んで、黙って食べた。途中で父が何か言いかけて、母に肘でつつかれて、知世は笑いをこらえるのに必死だった。
いまは、笑いをこらえる必要はなかった。
途中で、父の恵方巻が、また少し崩れた。卵焼きがはみ出して、皿の上に落ちた。父はそれを指でつまんで、口に入れた。
知世の目の端に、何かがにじんだ。前を向いたまま、まばたきをした。北北西の空は、もう、ほとんど夜の色だった。
最後の一口を食べ終えたのは、ほとんど同時だった。
父が、小さく息を吐いた。
「……まずかったな」
「うん」
知世はうなずいて、それから、少しだけ笑った。
「でも、全部食べた」
父も、少し笑った。
立春は、明日だった。窓の外で、どこかの家の豆まきの声が、遠く聞こえた。
知世は、空になった皿を見ていた。切らずに食べた一本は、形が崩れても、最後まで、ちゃんと一本だった。
来年は、七つの具を、二人で調べよう。そう思ったけれど、まだ口には出さなかった。言葉にするのは、もう少しあとでいい。
二人はしばらく、北北西を向いたまま座っていた。
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