
夢の中で、私は、見上げるほど大きな木の前に立っていた。
幹は、何人もの大人が手をつないでも囲めないほど太く、こぶだらけの肌には、深いしわが刻まれている。枝のあいだから、霧がゆっくりと流れていく。
美しい、と頭では分かっていた。けれど、心は、ぴくりとも動かなかった。何かを感じようとすればするほど、胸の中は、乾いた砂のように静かだった。
――目が覚めると、ワンルームの天井が見えた。今日も、朝から会議が三つ入っている。
四十二歳。システム会社で、チームをまとめる立場になって五年がたつ。仕事は、うまく回っている。家族とも、とくに問題はない。それなのに、ここ数年、私は、何に触れても心が動かなくなっていた。
娘の学芸会でも、泣いている周りの親たちを、どこか遠くから眺めていた。話題の映画を観ても、感想は「よくできていた」の一言で終わってしまう。
心が、どこかで止まっている。そんな気がしていた。
あの大きな木の夢を、三度目に見た朝、私は、有給休暇の申請書を出した。行き先は、屋久島。夢の木は、きっと、あの縄文杉だと思った。
屋久島に着いた翌朝、まだ暗いうちに、登山口からトロッコ道を歩きはじめた。案内を頼んだのは、七十近い、日に焼けたガイドの男性だった。
「縄文杉までは、片道五時間です。急がんでいいですよ」
雨の島らしく、細かな雨が降ったりやんだりしていた。苔むした岩、足もとを流れる沢、見上げるほどの杉の木々。歩いても歩いても、緑が途切れない。
途中から、息が上がって、足が重くなった。ふだん、どれだけ体を動かしていなかったのかを思い知らされる。
「昔の人はね」
休憩の岩に腰かけたとき、ガイドが、水筒の茶を飲みながら言った。
「心が動くと、歌を詠んだんだそうです。花に鳴く鶯や、水に住む蛙の声を聞けば、生きているもので、歌を詠まんものはおらん、ってね。古今集の、はじめのほうに書いてある」
「……心が、動かなくなったら、どうするんですかね」
思わず口にしてから、自分でも驚いた。ガイドは、少し考えて、笑った。
「動かんときは、歩けばいい。そのうち、向こうから動かしにきますよ」
途中、ウィルソン株と呼ばれる、巨大な切り株に立ち寄った。何百年も前に切り倒された杉の、根もとだけが残ったものだという。中は空洞になっていて、人が何人も入れるほど広い。
「中から、上を見上げてごらんなさい」
ガイドに言われて、切り株の中に入り、少し場所を変えながら見上げた。すると、ぽっかりと開いた切り口の形が、ちょうどハートの形になって、そこから空がのぞいていた。
「切り倒されても、こうして人を喜ばせとる。木ってのは、えらいもんです」
私は、しばらくそのハートの空を見上げていた。胸の奥で、何かが、かすかに音を立てた気がした。
それから、さらに二時間歩いた。木道の先が、ふいに開けた。
縄文杉は、そこに立っていた。
夢で見たのと、同じだった。けれど、夢とは、まったく違っていた。
湿った空気の中に、何千年も生きてきた幹が、どっしりと根を張っている。こぶだらけの肌は、雨に濡れて、黒く光っていた。見上げると、霧の向こうに、枝が空へと伸びていく。
私は、木道の柵に手をかけたまま、動けなくなった。
自分が、ひどく小さく感じられた。会議の資料も、部下の評価も、来期の目標も、この木が生きてきた時間の前では、ほんの一瞬のまばたきのようなものだった。
気がつくと、頬を、何かが伝っていた。
雨だと思った。けれど、それは、止まらなかった。四十二歳の男が、木の前で、子どものように泣いていた。
ガイドは、何も言わずに、少し離れたところで、空を見上げていた。
帰り道、雨は上がり、木々のあいだから、やわらかな日が差していた。
下り坂の途中で、年配の女性が、ぬかるみに足を取られて座りこんでいるのが見えた。前を歩いていた若い学生が、迷わず駆け寄って、手を貸していた。その姿を見たとき、胸の奥が、じんわりと熱くなった。
私も、気がつけば駆け寄っていた。女性のリュックを持ち、学生と二人で、平らな場所まで支えて歩いた。
「ありがとう。ほんとうに、ありがとう」
女性に何度も頭を下げられて、学生と私は、顔を見合わせて笑った。
ほんの数分のことだった。けれど、ここ数年で、いちばん、自分の心が動いた気がした。
その夜、宿の部屋で、私は家族に電話をかけた。娘が出た。
「屋久島、どうだった?」
「すごく大きな木があってね。お父さん、その木の前で、泣いちゃったよ」
電話の向こうで、娘が、驚いたように笑った。
「お父さんが泣くとこ、見てみたかったな」
その夜、また、あの大きな木の夢を見た。
霧の流れる森の中で、私は、木を見上げていた。今度は、胸の中で、何かが、ちゃんと震えていた。木のこぶの一つひとつが、まるで、何千年分の物語を語りかけてくるようだった。
私は、木に向かって、小さく頭を下げた。目が覚めたとき、枕が、少しだけ濡れていた。
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