
気づけば私は、ガラス張りの温室の中を歩いていた。
湿った空気に、土と葉の匂いが満ちている。背の高いシダの葉のあいだから、やわらかな光が差し込んでいた。ふと肩が重くなって横を見ると、一匹のカメレオンがちょこんと乗っていた。
緑色の体。くるりと巻いた尻尾。左右ばらばらに動く、丸い目。
「重くない?」
カメレオンが、しゃべった。私は驚くより先に、首を横に振っていた。
温室の小道の先に、人影が見えた。近づくと、それは会社の上司だった。いつもの眉間のしわを寄せて、何かを言おうとしている。その瞬間、肩のカメレオンの体が、すうっと灰色に変わった。上司の背広と同じ、落ち着いた灰色だった。
上司が通り過ぎると、次は大学時代からの友人が現れた。カメレオンは淡いピンクに。その次は、実家の母。カメレオンは母のエプロンと同じ、柔らかなベージュになった。
「あなた、会う人ごとに色を変えてるね」
私が言うと、カメレオンは片方の目だけをこちらに向けた。
「変えてるのは、あなたのほうだよ。わたしは、あなたの色を映してるだけ」
図星だった。私は、誰に対しても「感じのいい人」でいようとしてきた。上司には従順な部下の顔、友人にはいつも明るい聞き役の顔、母には心配をかけない娘の顔。どれも嘘ではないけれど、どれも少しずつ、本当の気持ちとは違う色をしていた。
「ねえ、知ってる? カメレオンって、隠れるために色を変えてるって思われてるけど」
カメレオンは、私の肩の上でくるりと向きを変えた。
「本当はね、気持ちを伝えるために色を変えてることのほうが多いの。怖いときの色、うれしいときの色、仲間に『ここにいるよ』って知らせる色。わたしたちの色は、隠すためじゃなくて、伝えるためにあるんだよ」
伝えるための色。私は、自分の色を誰かに伝えたことがあっただろうか。
「それとね、わたしのご先祖さまには、ちょっと恥ずかしい話があるの」
カメレオンは、少し照れたように目を細めた。
「むかしむかし、神さまが、わたしたちのご先祖に大事な知らせを託したんだって。でも、ご先祖はのんびり屋でね。道草を食いながら、周りの様子ばかりうかがって、ゆっくり歩いていたら、あとから出発したトカゲに先を越されちゃった。大事な知らせは、とうとう伝えそびれてしまったの」
カメレオンの体が、ほんの少しだけ、寂しげな色にくすんだ。
「あなたも、伝えそびれてること、あるでしょう」
温室の奥に、もう一度上司の姿が見えた。明日の会議で、私は新しい企画を任されることになっていた。本当は、今の仕事量では手が回らない。それを言えずに、「頑張ります」と笑うつもりだった。
「周りに合わせるのは、悪いことじゃないよ。わたしも、たくさんの色を持ってることが自慢なの」
カメレオンは、私の頬に、ひんやりとした鼻先を寄せた。
「でもね、いちばん大事な知らせだけは、周りの色に溶かさないで。自分の色で、自分の足で、ちゃんと届けてね」
そう言うと、カメレオンの体が、見たことのない色に変わっていった。若草のような、明るくてまっすぐな緑。灰色でも、ピンクでも、ベージュでもない。
「これが、あなたの色だよ」
目が覚めると、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。肩には、まだかすかに、何かが乗っていたような重みが残っていた。
その日の会議のあと、私は上司を呼び止めた。心臓がどくどくと鳴っていた。
「新しい企画、ぜひやりたいです。ただ、今の業務と両方だと、どちらも中途半端になってしまいそうで。進め方を、一緒に相談させてもらえませんか」
上司は少し驚いた顔をして、それから、眉間のしわをゆるめた。
「言ってくれて助かるよ。じゃあ、今の案件を誰かに振り分けよう」
あっけないほど、話は前に進んだ。
帰り道、ショーウィンドウに映った自分の姿が、なんだか少しだけ、明るい色をしているように見えた。
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