
気づけば私は、夕暮れの川べりに立っていた。
広い川面が、茜色の空を映してゆっくりと流れている。対岸には、見覚えのない古い町並み。空を見上げると、白い鳥たちが、夕日に翼を透かしながら舞っていた。
一羽が、すうっと降りてきて、私の足元の杭にとまった。白い体に、赤いくちばしと、赤い脚。カモメより少し小柄で、どこか品のある顔立ちをしていた。
「ずいぶん、遠くから来たようだね」
鳥が、穏やかな声で言った。
私は、うなずいた。春に地元の町を出て、東京の会社に就職した。ずっと憧れていた仕事だった。狭い町を出て、自由に生きたかった。
でも、半年が過ぎたいま、私はいつも少し息苦しかった。誰も私のことを知らない街は、自由で、そして、驚くほど孤独だった。
「あなたは、カモメ?」
「ここでは、都鳥と呼ばれていたよ。千年以上も前、この川のほとりで、都を追われた男が私たちに歌を詠んだ。『都という名を持つのなら、都に残した恋しい人が元気かどうか、教えておくれ』とね」
都鳥は、川面に目をやった。
「人は、遠くへ行くと、私たちに何かを尋ねたくなるらしい」
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
「……母は、元気でしょうか」
気づけば、そう尋ねていた。家を出る日、駅のホームで、母は何度も「無理しないでね」と言った。私は、振り返らずに電車に乗った。自由になりたかったから。それ以来、電話もろくにしていなかった。
都鳥は、少し首をかしげた。
「さあ。私は答えを運ぶ鳥ではないからね。それは、あなたが自分で確かめることだ」
それから、ばさりと翼を広げた。
「少し、飛んでみるかい」
次の瞬間、私の体はふわりと浮き上がっていた。腕が、白い翼になっている。風が、羽の一本一本を撫でていく。眼下には、きらきらと光る川と、夕闇に沈んでいく町並み。
自由だった。どこまでも、どこへでも行ける気がした。
けれど、高く昇るほど、胸の奥の心細さも大きくなっていった。見渡す限りの空に、帰る場所が見えない。
「自由というのは、不思議なものでね」
隣を飛ぶ都鳥が言った。
「何にも縛られないことは、何にも守られていないことでもある。だから人は、自由に憧れながら、自由を怖がる」
「……私も、怖いです」
「それでいいんだよ。怖さを知っている鳥のほうが、遠くまで飛べる」
都鳥は、ゆっくりと旋回しながら、遠い空の一点を見つめた。
「昔、ただ速く、ただ高く飛ぶことだけを追い求めたカモメの話があってね。そのカモメは、群れから離れて、たった一羽で空の果てを目指した。でも最後には、群れに戻って、若い鳥たちに飛び方を教えたんだ。遠くへ飛ぶことと、帰る場所があること。そのどちらも、翼には必要なんだよ」
帰る場所。
私は、遠い空の向こうにある、小さな町を思った。古い商店街。駅前のパン屋。そして、台所に立つ母の後ろ姿。
「私は、帰らなきゃいけないんですか」
「いいや」
都鳥は、笑うように目を細めた。
「ここで飛び続けていい。ただ、ときどき、帰る場所のことを思い出しておあげ。帰る場所があると知っている翼は、どんな風にも負けない」
夕日が、川の向こうに沈んでいった。私の翼は、少しずつ人の腕に戻り、足は、また川べりの土を踏んでいた。
目が覚めると、まだ夜明け前だった。
私はしばらく天井を見つめてから、スマートフォンを手に取った。朝早すぎるかもしれない。でも、母はいつも早起きだった。
呼び出し音が三回鳴って、懐かしい声が聞こえた。
「もしもし? どうしたの、こんな朝早く」
「ううん、なんとなく。……元気?」
母は、電話の向こうで、少し驚いたように笑った。
「元気よ。あんたこそ、ちゃんと食べてる?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥で固まっていたものが、ふっとほどけた。
窓の外で、白い鳥が一羽、朝の空へ飛び立っていった。
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