
その痒みは、決まって夜の十一時に始まった。
夢の中の私は、窓のない小さな部屋にいた。白い壁、白い天井、ベッドが一つ。扉には内側から鍵がかかっていて、隙間という隙間には、目張りのテープがきっちりと貼られている。
完全な密室だった。
それなのに、右の腕が、痒い。
最初は、ほんの少しむずむずする程度だった。けれど、掻けば掻くほど痒みは広がり、やがて腕全体が熱を持ったように疼きはじめる。
蚊だ、と思った。私は部屋じゅうを探し回った。ベッドの下、天井の隅、壁の継ぎ目。けれど、どこにも虫の姿はない。羽音一つ、聞こえない。
虫のいない密室で、何が私を刺したのか。
三日目の夜、私は、この夢の謎を解くことに決めた。
まず、手がかりを整理する。ベッドの横の小さな机に、夢の中のノートを広げた。
一つ目。痒みは、必ず夜の十一時に始まる。
二つ目。腕には、刺された跡が一つもない。赤く腫れているのは、自分で掻いた跡だけだ。
三つ目。
私は、鉛筆を止めた。三日目の夜、痒みが始まる直前に、壁の向こうから、かすかな音が聞こえたのだ。
かり、かり、かり。
誰かが、何かを掻いているような音。
私は壁に耳を押し当てた。確かに聞こえる。かり、かり。ときどき、低いため息が混じる。その音が聞こえはじめてから少しして、決まって私の腕が痒くなる。
犯人は、壁の向こうにいる。
でも、どうやって。壁は厚く、隙間もない。虫が通り抜ける道はどこにもない。
ベッドの横の鏡に目をやったとき、私は、四つ目の手がかりに気づいた。
鏡の中の私が、腕を掻いていた。私がまだ、掻きはじめてもいないのに。
いや、違う。よく見ると、鏡の中の私は、腕ではなく、首の後ろを掻いている。その仕草に、見覚えがあった。
悠だ。
一緒に暮らしている恋人の、悠の癖だった。困ったときや、考えごとをしているとき、悠は決まって首の後ろを掻く。この一か月、その仕草を、毎晩のように見ていた気がする。
仕事から帰ってきて、遅い夕食を済ませて、夜の十一時ごろ。リビングのソファで、悠はいつもスマートフォンを眺めながら、黙って首の後ろを掻いていた。私は、疲れているんだろうと思って、特に声をかけなかった。
ノートの端に、昔どこかで読んだ話を書きつける。
――痒みは、うつる。
誰かが体を掻いているのを見ただけで、見ている人にも痒みが生じる。あくびがうつるのと同じように。
虫など、最初からいなかった。
私は、毎晩、悠が首を掻く姿を見て、その痒みを受け取っていたのだ。悠が言葉にしない何かを、私の体が先に感じ取っていた。
では、悠を掻かせていたものは何か。
それが、この事件の本当の謎だった。
私は、目張りのテープに手をかけた。一枚、また一枚とはがしていく。鍵を開け、扉を押す。
扉の向こうには、見慣れたリビングがあった。ソファに、悠が座っていた。首の後ろに手を当てたまま、ぼんやりと、暗いテレビの画面を見つめている。
「悠」
呼びかけると、悠はゆっくりと振り向いた。
その瞬間、私は目を覚ました。
時計を見ると、夜の十一時を少し過ぎていた。隣の部屋から、テレビの小さな音が聞こえる。私はベッドを抜け出して、リビングへ向かった。
ソファの悠は、夢と同じように、首の後ろを掻いていた。
「ねえ、最近、何かあった?」
隣に座ってそう聞くと、悠は少し驚いた顔をして、それから、長いため息をついた。
「……実はさ、来月から、部署が変わることになって。正直、うまくやれるか不安で」
悠は、ぽつりぽつりと話しはじめた。新しい上司のこと、慣れない仕事のこと、誰にも言えずにいた心配ごと。私は、ただ黙って聞いていた。
話し終えるころには、悠の手は、もう首の後ろから離れていた。
「なんか、すっきりした。言えてよかった」
その夜、私は、腕の痒みを一度も感じることなく眠った。
事件は解決した。犯人は、虫ではなかった。言葉にならなかった不安が、首を掻く仕草になり、それが私にうつっていたのだ。
痒みは、ときどき、大切な人のSOSを運んでくる。
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