
霧の深い夜だった。
気づけば私は、古びた洋館のロビーに立っていた。赤い絨毯、止まったままの柱時計、階段の上から垂れ下がる、埃をかぶったシャンデリア。暖炉の前の椅子に、黒いコートの男が一人、足を組んで座っていた。ネクタイピンは、小さな銀色のカミソリの形をしている。
「お待ちしていました。私は探偵です。今夜、この館で、ひとつの事件が起きました」
男は、帽子のつばで目元を隠したまま、ゆっくりと立ち上がった。
「被害者は、あなたと、あなたの友人・真由さんの友情です。何者かに、鋭い刃で切り裂かれました」
背筋が、すっと冷えた。真由とは、大学時代からの親友だ。けれどこの二週間、メッセージを送っても既読がつくだけで、返事が来ていなかった。
「現場へご案内しましょう」
通されたのは、館の奥の洗面所だった。白い洗面台の上に、一本のカミソリが置かれている。刃には、血も汚れもついていない。その横に、破られた便箋の切れ端が落ちていた。
「さて、あなたの推理を聞かせてください」
探偵にうながされて、私は考えた。考えはじめると、いくらでも可能性が浮かんできた。
「真由には最近、新しい恋人ができたんです。きっとその人が、私のことを悪く言って、真由を遠ざけたんだと思います」
「ほう」
「それか、私が先月昇進したことを、真由が妬んでいるのかもしれません。あの子、自分の仕事がうまくいってないって言ってたし。それとも、共通の友達の誰かが、私の悪口を吹き込んだとか……」
話しているうちに、推理はどんどん枝分かれしていった。恋人の陰謀、嫉妬、第三の人物の暗躍。まるで長編ミステリーのように、仮説が積み重なっていく。
探偵は、黙って聞いていた。そして私が話し終えると、ネクタイピンのカミソリを、指先でそっと撫でた。
「オッカムの剃刀、という言葉をご存じですか」
「……いいえ」
「昔の哲学者の考え方です。物事を説明するとき、必要以上に仮定を増やしてはいけない。いくつもの説明が考えられるなら、いちばん単純なものから疑え、というものです」
探偵は、私の立てた仮説を、一つずつ指で数えた。
「恋人の陰謀。嫉妬。謎の第三者。どれも、ずいぶんと仮定が多い。では、余計なものを剃り落としてみましょう。残るのは何でしょうか」
探偵は、洗面台のカミソリを手に取り、その柄を私に向けて差し出した。
柄には、小さく私の名前が刻まれていた。
「このカミソリは、あなたのものです」
破られた便箋の切れ端を拾い上げる。そこには、見覚えのある文字が並んでいた。二週間前、私が真由に送ったメッセージだった。
「真由って、いつも人に頼ってばっかりだよね(笑)」
冗談のつもりだった。仕事の愚痴をこぼす真由に、軽い調子で返しただけだった。けれど、その一文の切れ味は、読み返すと、驚くほど鋭かった。
「いちばん単純な説明は、こうです」
探偵は、静かに言った。
「あなたの言葉が、真由さんを傷つけた。そして、あなたはまだ謝っていない。以上です」
言い返す言葉は、見つからなかった。私は、恋人や嫉妬や第三者という複雑な物語を作り上げることで、いちばん単純で、いちばん認めたくない真実から、目をそらしていたのだ。
「犯人は、いつもいちばん近くにいるものです」
探偵が帽子を取った。
その顔は、私の顔だった。
洗面台の鏡に映る自分と、目の前の探偵が、まったく同じ顔で私を見つめていた。
目が覚めると、まだ外は暗かった。私はベッドから起き上がり、スマートフォンを開いた。言い訳も、長い説明もいらない。余計な言葉は、全部剃り落とした。
「この前のメッセージ、ひどいこと言ってごめん。真由のこと、本当はすごく頼りにしてる」
送信して、洗面所に向かう。顔を洗って顔を上げると、鏡の横に置いたカミソリに、窓から差し込んだ朝日が、小さく光っていた。
スマートフォンが震えた。
「ずっと待ってた。私こそ、返事しなくてごめんね」
事件は、それで解決した。
いちばん単純な答えは、いつも、いちばん勇気がいる。
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