
(パン、パン)
さて、ここに一席、申し上げまするは、ある晩、一人の娘が見た、夢の中の道中記でございます。
娘の名は、仮にお葉(よう)と申しておきましょう。これがまあ、気立てはよいが、人の頼みを断れぬ。店先で「お似合いですよ」と言われれば財布の紐がほどけ、電話口で「今だけのお得なお話」と聞けば、ついつい「はい、はい」と頷いてしまう。人呼んで、町内一の「おカモさま」。
そのお葉が、ある晩、ふっと眠りに落ちますと――
(パン!)
気がつけば、冬の水辺。葦の生い茂る池のほとり。見下ろせば、おのれの手は茶色い羽、足は橙色の水かき。なんとお葉、一羽の鴨になっておりました。
しかも、その背中には、青々とした長葱が一本、しっかと縛りつけられている。
「な、なんで葱なんか背負ってるの!」
うろたえるお葉の前に、するりと現れましたのが、赤い前掛けを締めた一匹の狐。これがまた、口のうまいことうまいこと。
「これはこれは、見事な葱をお持ちのお嬢さん。いやあ、ちょうどいい。この先に、それはそれは温かい、極上の湯殿がございましてな。冷えた体に、さぞかし効きましょう。ささ、ご案内いたしましょう」
「まあ、湯殿ですって」
根が素直なお葉鴨、狐の言葉をすっかり真に受けて、よちよちとあとをついて参ります。
葦の道を抜け、林を越え、狐の案内でたどり着いた先には、ぐつぐつと煮え立つ大鍋。湯気の向こうには、「鴨鍋屋」の暖簾がひらひら。
(パン、パン!)
「ゆ、湯殿って、これ鍋じゃないの!」
「おや、お気づきになりましたか。いやなに、ちょうどいいお湯加減ですよ。葱もご持参いただいて、手間が省けて何よりで」
これぞまさに、鴨が葱を背負ってやって来た。狐の目が、にんまりと細くなる。
あわや鍋の中、というその時でございます。
「お待ちなさい!」
池の方角から、凛とした声が響き渡った。見れば、緑の頭がつややかに光る、年を経た一羽の大鴨。その後ろには、ちょこちょこと一列に並んだ、小さなひなたちがおりました。
「そこの娘、おまえさん、なぜ言われるままについてきた」
「だ、だって、断ったら悪いかなって……」
大鴨は、ふうっとため息をひとつ。
「いいかい。わしら鴨はな、毎朝くちばしで、尾の付け根から出る脂を羽の一本一本に塗り広げる。だから、どれだけ冷たい水に浮かんでも、水は羽の上をころころと転がり落ちて、体の芯までしみ込むことはない」
大鴨は、ばさりと羽を広げて見せました。水滴が、きらきらと光って転がり落ちる。
「人の言葉も同じことよ。聞くのは構わん。だが、何もかも体の芯までしみ込ませることはない。はじくべきものは、はじけばよい」
「はじく……」
「それからな、その葱」
大鴨は、お葉の背中を、くちばしでこつんと突きました。
「背負うのは結構。だがそれは、他人の鍋のためではなく、自分の鍋のために背負うものだ。己の葱は、己で使え」
お葉、はっとして背中の葱を見る。そうだ、これは、自分のために使っていいものなのだ。
「では、ごきげんよう!」
お葉鴨は、背中の葱をきゅっと締め直すと、狐に向かってぺこりと一礼。くるりと向きを変えて、大鴨一家の列の最後尾に並びました。
「あ、ちょ、ちょっとお嬢さん! 鍋が、鍋が冷めちまう!」
慌てる狐を背に、鴨の一家は一列になって、すいすいと池へ帰って参ります。お葉鴨の羽の上を、狐の声がころころと転がり落ちていく。
(パン、パン!)
――と、そこで、はたと目が覚めたお葉。
枕元のスマートフォンが、ちょうどぶるぶると震えております。画面には、先週しつこく勧められた「今だけの特別プラン」の営業電話。
お葉、ひとつ深呼吸をいたしまして、
「せっかくですが、けっこうです。失礼します」
と、にっこり。電話をすっと切りますと、なんとも体が軽い。
その晩、お葉は台所に立ち、冷蔵庫の長葱を刻んで、自分のために温かい鴨南蛮をこしらえたそうでございます。
己の葱は、己の鍋に。
鴨葱道中記、これにて読み終わりといたします。
(パン!)
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