
夢の中で、私は、子どものころに暮らした家の前に立っていた。
家の裏を流れる川が、低い音を立てて、ふくれあがっている。茶色く濁った水が、岸の土をえぐり、少しずつ、少しずつ、こちらへ近づいてくる。
私は、土のうを積んでいた。一つ積んでは、また一つ。けれど、どれだけ積んでも、水は、そのすき間からにじみ出してくる。腕がしびれて、もう持ち上げられない。それでも積むのをやめたら、すべてが流されてしまう気がした。
最後の土のうを積んだ瞬間、堤が、どおん、と崩れた。
――目が覚めると、枕が濡れていた。泣いていたのは、夢の中だけではなかったらしい。
母が亡くなって、三か月が過ぎた。
通夜も葬儀も、私は一度も泣かなかった。一人娘の私が、しっかりしなければと思った。喪主の父は、ずっと黙りこんでいて、親戚への挨拶も、役所の手続きも、遺品の整理も、すべて私がこなした。
それから三か月、私は、何事もなかったように会社に通っている。同僚には「強いね」と言われた。そのたびに、私は笑ってうなずいた。
けれど、夜になると、あの夢を見る。崩れる堤と、押し寄せる濁流の夢を。
金曜日の午後、小さなことが起きた。
後輩が、私の机に置いたマグカップを、うっかり倒したのだ。こぼれたコーヒーが、書類の上に広がっていく。
「すみません、すぐ拭きます」
大したことではなかった。書類は印刷し直せばいいし、マグカップも割れていない。それなのに、私は、なぜか、その場から動けなくなった。広がっていく茶色い染みが、夢の中の濁流に見えた。
「……大丈夫。気にしないで」
そう言って笑った自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。給湯室に駆けこんで、流しの縁を握りしめた。息がうまく吸えない。胸の奥で、何かが、ぎしぎしと音を立てていた。
あのマグカップは、去年の誕生日に、母が送ってくれたものだった。
その週末、実家に帰ると、父が珍しく、自分から声をかけてきた。
「真由、ちょっと付き合ってくれるか」
父は、四十年近く、県の土木事務所で、川の堤防をつくる仕事をしてきた人だ。無口で、家ではほとんど仕事の話をしなかった。
父の運転する車は、川沿いの道をしばらく走り、古い堤防のそばで止まった。秋の河原には、すすきが揺れていた。
「これは、霞堤っていうんだ」
父は、堤防を指さした。よく見ると、堤防は一本につながっておらず、ところどころで途切れて、斜めに重なり合っていた。
「途切れてるけど、壊れてるわけじゃない。わざと、切れ目をつくってあるんだ」
「わざと?」
「大雨で川があふれそうになったら、この切れ目から、水を後ろの田んぼに逃がす。水かさが下がれば、また川に戻っていく。昔の人の知恵だよ。武田信玄の堤も、こういう考え方でつくられてる」
父は、ポケットに手を入れたまま、川面を見つめていた。
「全部を高い壁でせき止めようとするとな、どこかで必ず、いちばん弱いところが切れる。そうなったら、もう止められない。だから、少しずつ、逃がしてやるんだ」
私は、何も言えなかった。夢の中で、土のうを積み続けていた自分の腕のしびれを、思い出していた。
「母さんの葬式のとき」
父が、ぽつりと言った。
「お前、一度も泣かなかったな」
「……だって、私がしっかりしなきゃって」
「俺のせいだな。俺が、何もできなかったから」
父の声が、かすかに震えた。
「俺も、まだ泣いてない。泣いたら、全部が崩れる気がしてな。でも、母さんの茶碗を見るたびに、ここが」
父は、自分の胸を、拳で軽く叩いた。
「ここが、決壊しそうになる」
その瞬間、私の中で、何かが崩れた。けれど、それは、夢の中の堤のような、恐ろしい崩れ方ではなかった。
涙が、静かにあふれてきた。三か月分の涙が、霞堤の切れ目から、ゆっくりと流れ出していくように。
父も、泣いていた。四十年間、川と向き合ってきた大きな背中が、小さく震えていた。
すすきの揺れる河原で、私たちは、並んで、しばらく泣いた。誰も、止めようとはしなかった。
「母さん、よく言ってたよね。お父さんは、川のことしか話さないって」
泣きながら、私が言うと、父は、鼻をすすって笑った。
「話すことが、それしかなかったんだよ」
帰りの車の中で、父は、母との出会いの話をしてくれた。初めて聞く話だった。若いころの父が、堤防の工事現場で、お弁当を届けにきた母に一目ぼれしたこと。照れくさくて、話しかけるまでに三か月かかったこと。
私は、笑ったり、また泣いたりしながら、その話を聞いた。
その夜、実家の自分の部屋で、私は、また、あの夢を見た。
家の裏の川が、ふくれあがっている。けれど、今度は、私は土のうを積んでいなかった。
川の水は、堤の切れ目から、ゆっくりと田んぼへ流れこんでいった。あふれた水は、田んぼいっぱいに広がり、やがて、静かに川へ引いていった。
水が引いたあとの田んぼには、やわらかな土が残っていた。そして、その土から、小さな緑の芽が、いくつも顔を出していた。
岸辺には、父と、若いころの母が、並んで立っていた。
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