
夢の中で、私は、白い棺桶の中に横たわっていた。
ふたは開いていて、四角く切り取られた天井が見える。不思議と、怖くはなかった。木の香りがして、体の下の布がやわらかい。
どこか遠くで、母が私の名前を呼んでいる。透子、透子。返事をしようとしたけれど、声が出なかった。
――目が覚めると、まだ外は暗かった。今日は、納棺の仕事が二件入っている。
私が、この葬儀会社に入って、半年になる。
その前は、都心の広告会社で働いていた。毎晩終電まで働き、休日も仕事の連絡に追われた。ある朝、駅のホームで足が動かなくなり、そのまま会社を辞めた。実家の母には、いまの仕事のことを、まだ詳しく話せていない。
「透子さん、手、冷たくない?」
ご遺体のお顔を拭く前に、先輩の谷口さんは、いつもそうたずねる。六十を過ぎた、白髪まじりの小柄な女性だ。この仕事を、三十年以上続けている。
「冷たい手で触れたら、驚かれるでしょう。生きている人に触れるつもりで、ね」
谷口さんは、ご遺体に語りかけるように手を動かす。髪をとかし、お顔をそっと拭い、白い旅装束を整える。その手つきは、まるで、これから長い旅に出る人の身支度を手伝うようだった。
入社したばかりのころ、私は、ご遺体に触れることができなかった。手を伸ばそうとすると、指先が震えて止まってしまう。
そんな私に、谷口さんは、小さなハンドクリームを手渡した。
「まずは、自分の手を温めることから。急がなくていいのよ」
控え室で、私はハンドクリームを、ゆっくりと手に塗りこんだ。ほんのりと、柚子の香りがした。前の会社では、自分の手の冷たさになんて、一度も気づいたことがなかった。
その日、二件目の現場は、九十二歳で亡くなったおばあさんの家だった。
座敷に入った瞬間、空気がぴりぴりしているのが分かった。長男と長女が、部屋の隅で、低い声で言い争っている。家の名義のこと、預金のこと。孫らしき高校生の男の子が、居心地悪そうに、柱にもたれていた。
谷口さんは、何も言わずに、静かに準備を始めた。私も、その横で手を動かした。
おばあさんのお顔は、穏やかだった。目尻に、笑いじわがたくさん刻まれていた。
「ご家族の皆さま」
すべての支度が整ったところで、谷口さんが、穏やかな声で言った。
「これから、お母さまを棺へお移しします。旅のお支度に、何か持たせてあげたいものはありますか」
言い争っていた声が、ふっと止んだ。
しばらくして、長女が、たんすの引き出しから、毛玉のついた紫色のカーディガンを持ってきた。
「母が、毎年冬になると着ていたの。私が、初任給で買ってあげたもの」
長男は、黙って縁側に出ていき、小さな植木鉢を抱えて戻ってきた。おばあさんが、毎朝水をやっていた、すみれの鉢だった。
「花だけ、入れてやってもいいですか」
孫の男の子は、ノートを一枚ちぎって、何かを書きはじめた。書いては消し、また書いて、最後に、小さく折りたたんだ。
カーディガン、すみれの花、折りたたんだ手紙。それから、三途の川の渡し賃だという六文銭を描いた紙。棺の中が、少しずつ、おばあさんの旅支度で満たされていく。
気づくと、長男と長女は、並んで棺をのぞきこみ、目を赤くしていた。
「母さん、ありがとうね」
長女が、おばあさんの手をそっと握った。長男が、その肩に手を置いた。さっきまでの言い争いが、嘘のようだった。
帰りの車の中で、私は、谷口さんにたずねた。
「ああいうとき、いつも、ご家族に持ち物をたずねるんですか」
「棺はね、閉じこめる箱じゃないの。送り出すための舟なのよ」
谷口さんは、窓の外を見ながら言った。
「最後に何を持たせたいか考えると、人は、その人と過ごした時間を思い出す。何が本当に大切だったのかも、思い出すの」
その夜、私は、自分の部屋で、ぼんやりと考えた。
もし、いま私が棺に入るとしたら、誰が、何を入れてくれるだろう。広告会社で必死に取った賞状だろうか。それとも。
浮かんできたのは、母が編んでくれた、黄色い手袋だった。子どものころ、毎冬つけていたもの。指先がほつれても、母が何度も繕ってくれた。
私は、一年ぶりに、母に電話をかけた。
「透子? どうしたの、こんな時間に」
母の声を聞いた瞬間、涙が出そうになった。私は、いまの仕事のことを、初めてちゃんと話した。人を送り出す仕事をしていること。それが、思っていたよりずっと、温かい仕事だということ。
母は、しばらく黙って聞いてから、言った。
「あんたらしいね。昔から、人の気持ちに寄り添うのが、上手な子だったもの」
電話を切ったあと、私は、カレンダーを見て、次の休みに実家へ帰ることに決めた。
その夜、また、あの夢を見た。
白い棺桶が、静かな川の上に浮かんでいた。けれど、今度は、私はその中に横たわってはいなかった。私は、棺のそばに立って、その中に、ゆっくりと花を手向けていた。
棺は、舟のように、穏やかに川を下っていく。向こう岸では、母が、黄色い手袋をはめた手を、大きく振っていた。
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