
夢の中で、僕は、答案用紙の上に、こっそり小さな紙切れを広げていた。
びっしりと書きこまれた公式と答え。周りに気づかれないように、ちらり、ちらりと目を落とす。答えを写すたびに、心臓の音が、教室じゅうに響いているような気がした。
「陽向」
顔を上げると、教壇の先生が、まっすぐに僕を見ていた。教室じゅうの視線が、いっせいに僕に集まる。手の中の紙切れが、急に燃えるように熱くなった。
――目が覚めると、カーテンの隙間から朝の光が差していた。今日は、二学期の期末テストの初日だ。
僕は、学年で十番以内に入っている。先生からも、親からも、「陽向なら大丈夫」と言われ続けてきた。
でも、本当は、ずっと怖かった。
いい点が取れているのは、たまたま運がよかっただけじゃないか。いつか、本当は大したことのない人間だと、みんなに見抜かれてしまうんじゃないか。テストが近づくたびに、そんな不安で、夜、眠れなくなった。
一時間目は、数学だった。
最後の大問で、手が止まった。どれだけ考えても、解き方が浮かばない。時計の針が、容赦なく進んでいく。頭の中が、真っ白になった。
そのとき、ふと、隣の席が目に入った。
隣の席の白石さんは、クラスで一番数学ができる、無口な女の子だ。彼女の答案用紙が、ほんの少しだけ、こちら側にずれていた。最後の大問の答えの欄が、ちらりと見えそうな位置にあった。
見れば、分かる。ほんの一瞬、目をやるだけで。
ゆうべの夢の、熱くなった紙切れの感触が、手のひらによみがえった。
僕は、ぎゅっと目をつぶった。それから、自分の答案用紙に向き直った。答えは分からない。でも、分かるところまでは、自分の力で書こうと思った。
途中式を、一行ずつ書いていく。たぶん、どこかで間違えている。それでも、チャイムが鳴るまで、ペンを止めなかった。
一週間後、答案が返ってきた。最後の大問は、やっぱり不正解だった。点数は、いつもより十五点も低かった。
けれど、答えの欄の横に、先生の赤い字で、小さな書きこみがあった。
――考え方は合っている。計算ミス一か所。この途中式、とてもいい。
僕は、その赤い字を、しばらく見つめていた。答えは間違っていたのに、なぜか、胸の奥が温かかった。
その晩、僕は、おそるおそる答案を母に見せた。いつもより十五点も低い点数。きっと、がっかりされると思った。
母は、しばらく答案を眺めてから、赤い書きこみを指でなぞった。
「へえ。陽向、ちゃんと最後まで考えたんだね」
「……点数、下がったけど」
「点数より、こっちのほうがうれしいかな。昔から、分からないと、すぐに消しゴムで全部消しちゃう子だったから」
そう言って笑う母の顔を見て、僕は、なんだか拍子抜けした。がっかりされることばかり怖がっていたのは、僕のほうだったのかもしれない。
放課後、昇降口で靴を履き替えていると、白石さんが、珍しく声をかけてきた。
「……テストのとき、私の答案、見えてたでしょ」
心臓が跳ねた。
「ごめん、見えそうな位置に置いちゃって。でも、見なかったよね。ずっと、自分の答案に書いてた」
「……なんで分かるの」
「隣だから」
白石さんは、少しだけ笑った。それから、うつむいて、ぽつりと言った。
「私ね、数学ができるって言われるの、本当は苦しいんだ。一回でも悪い点を取ったら、みんな、がっかりするんじゃないかって。だから、あの日も、最後の問題、すごく怖かった」
僕は、驚いて白石さんを見た。いつも落ち着いて見えた彼女も、僕と同じことを怖がっていたのだ。
「……僕も、同じ」
その日から、僕たちは、放課後の図書室で、一緒に勉強するようになった。分からない問題があれば、恥ずかしがらずに聞き合う。間違えたら、どこで間違えたのかを、二人で探す。
不思議なことに、間違えることが、少しずつ怖くなくなっていった。間違いは、自分がだめだという証拠じゃない。どこを直せばいいのかを、教えてくれる手がかりなのだ。
ある日の図書室で、白石さんが、一枚のノートを差し出した。そこには、彼女が一年生のときに間違えた問題が、びっしりと書き写されていた。
「間違いノート。間違えた問題だけ集めてるの。見返すと、自分がどこでつまずくのか、だんだん分かってくる」
ページをめくると、どの問題にも、赤ペンで、間違えた理由が書きこまれていた。完璧に見えていた白石さんにも、こんなにたくさんの間違いがあったのだ。
次の日から、僕も、自分の間違いノートをつけはじめた。
三学期の期末テスト。最後の大問は、また難しい問題だった。でも、僕は、手を止めずに、途中式を書き続けた。答えの欄に、自分で出した数字を書きこんだとき、ちらりと隣を見ると、白石さんも、同じように、真剣な顔でペンを走らせていた。
その夜、また、あの教室の夢を見た。
答案用紙の上には、やっぱり、小さな紙切れがあった。けれど、僕は、それを開かなかった。くしゃくしゃに丸めて、ポケットにしまった。
そして、自分の答案用紙に、途中式を一行ずつ書いていった。すると、書いた式が、ひとつ、またひとつと、やわらかな光を帯びはじめた。
教壇の先生が、今度は、にっこりと笑っていた。
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