
夢の中で、おいらは、まっさらな雪の原っぱに立っていた。
雪の上を、小さな鳥たちが、ちょんちょんと跳ねていく。そのあとには、細い足あとが、いくつも残っていた。じっと見ていると、足あとは、するすると形を変えて、何かの字になろうとしている。けれど、それが何の字なのか、おいらにはちっとも読めなかった。
足あとの字は、おいらが読めないうちに、雪に埋もれて消えていった。
――目が覚めると、長屋の薄い壁の向こうで、おっかさんが、こほん、こほんと咳をしていた。
おいらは新太。十になる。深川の長屋で、大工のおとっつあんと、おっかさんと三人で暮らしている。
おっかさんは、秋の終わりから、ずっと具合が悪い。医者に診せる金もなく、布団の中で、寒さに震えながら咳をしている。
おいらは、町の寺子屋に通っている。けれど、手習いは大の苦手だった。いろはは書けるようになったけれど、漢字となると、さっぱりだ。画数が多くて、どこから書けばいいのかも分からない。
「字なんか書けなくたって、腕さえあれば食っていける」
おとっつあんは、いつもそう言う。おいらも、そうだと思っていた。
先月、おっかさんの薬を買いに、日本橋の薬種問屋まで使いに出たことがある。けれど、軒先に並ぶ看板の字が、一つも読めなかった。どの店に入ればいいのか分からず、通りを何度も行ったり来たりした。
見かねた丁稚の小僧が、鼻で笑って言った。
「なんだい、字も読めねえのか」
顔が、かっと熱くなった。結局、おいらは何も買えずに、長屋へ逃げ帰った。おっかさんは「いいんだよ」と笑ったけれど、その晩、おいらは悔しくて、なかなか眠れなかった。
その日、寺子屋のお師匠さまが、半紙を配りながら言った。
「今日は、自分のいちばん大切な人の名を、漢字で書いてみなさい」
おいらは、筆を握ったまま固まった。いちばん大切な人なら、すぐに分かる。おっかさんだ。けれど、「母」という字が、どうしても思い出せない。前に一度、習ったはずなのに。
ほかの子たちが、すらすらと筆を走らせる音がする。おいらの半紙だけが、いつまでも真っ白だった。
「新太、どうしたの」
お師匠さまが、おいらの横に座った。お師匠さまは、もとは武家の奥方だったという、物静かな女の人だ。
おいらは、正直に言った。
「おっかさんの字が、書けねえ」
お師匠さまは、怒らなかった。それどころか、少し笑って、こんな話をしてくれた。
「むかし、唐の国のずっと昔に、蒼頡という人がいたの。目が四つもあって、ある冬の日、雪の上に残った鳥や獣の足あとを見て、ものの形を写しとる、字というものを思いついたのですって」
おいらは、目を丸くした。ゆうべの夢と、同じだった。
「字ができたとき、天からは穀物が雨のように降ってきて、鬼は、夜に声をあげて泣いたそうよ」
「鬼が、泣いたんですか」
「ええ。字があれば、人は、遠く離れた人にも、ずっと先の世の人にも、思いを届けられるようになる。鬼は、それが怖かったのかもしれないわね」
それから、お師匠さまは、おいらの手を取って、手のひらの上に、指で、ゆっくりと字を書いた。
「母という字はね、女の人が、子に乳をあげている姿からできたといわれているの。ほら、ここが、お乳の二つの点」
くすぐったかった。けれど、手のひらに書かれた字は、不思議と、目で見るよりも、ずっとはっきりと、おいらの中に入ってきた。
「分からなくなったら、こうして指で書いてごらんなさい。字は、目だけじゃなくて、手でも覚えているものだから」
その日、おいらは、半紙いっぱいに、何度も何度も「母」と書いた。はじめはよろよろだった字が、少しずつ、しっかりした形になっていった。
それから、おいらは、お師匠さまに頼んで、もう一つ、字を教えてもらった。
「無事」。
ぶじに、元気でいてほしい。その思いを、字にしたかったのだ。
その晩、長屋に帰ると、おいらは、行灯の明かりの下で、半紙に筆を走らせた。指で手のひらに書いて確かめながら、一画、一画。
――母 無事でいろ 新太
おっかさんの枕元に、その半紙をそっと置いた。
おっかさんは、熱っぽい目で、しばらく紙を見つめていた。それから、細い指で、字の上をなぞった。
「新太が、書いたのかい」
「おいらだって、これくらい書ける」
おっかさんは、ふふっと笑って、それから、ぽろぽろと涙をこぼした。
「字ってのは、すごいねえ。おまえの声が、紙から聞こえてくるみたいだよ」
その夜、仕事から帰ってきたおとっつあんが、枕元の半紙を見つけた。おとっつあんは、何も言わずに、長いことその字を眺めていた。そして、ぼそりと言った。
「……明日、医者を呼んでくる。なに、金はなんとかするさ」
それから十日ほどして、おっかさんの咳は、少しずつおさまっていった。
ある晩、おいらは、また、あの雪の原っぱの夢を見た。
雪の上を、小さな鳥たちが跳ねていく。残された足あとは、するすると形を変えて、一つの字になった。
今度は、おいらにも読めた。
「母」。
字は、雪に埋もれずに、朝日に照らされて、いつまでも、きらきらと光っていた。
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