
その神棚は、祖母の家から持ってきたものだった。
祖母が叔母の家で暮らすことになり、長く住んだ家を片づけたとき、「あんたが持っていきなさい」と手渡された、小さな三社造りの神棚。東京のアパートに越してきて半年、私はそれを本棚の上に置いたまま、一度も手を合わせていなかった。
仕事は忙しく、帰ってきたら寝るだけの毎日。休日も、何をしたいのかわからないまま過ぎていく。どこにいても、自分が少しだけ宙に浮いているような感覚があった。
その夜、夢の中で、私は本棚の前に立っていた。
本棚の上の神棚が、ほんのりと光っている。近づくと、小さな扉がきいと開いて、中から白い装束の、手のひらほどの大きさのおじいさんが、ごほごほと咳き込みながら出てきた。
「ほこりっぽくて、かなわん」
おじいさんは、白い袖で顔の前をぱたぱたとあおいだ。
「煤払いは、まだかね」
「す、すみません」
思わず頭を下げると、おじいさんは、ふん、と鼻を鳴らして、神棚の屋根にちょこんと腰かけた。
「まあ、ええ。忙しかったんじゃろう。顔を見ればわかる」
おじいさんは、神棚の三つの扉を順に指さした。
「真ん中は、伊勢の神さまのお札じゃ。昔、御師という者たちが、日本じゅうを歩いてこのお札を配っての。それで、どこの家にも神棚ができた」
それから、向かって右の扉をこつこつと叩いた。
「こっちは、あんたのばあちゃんの町の氏神さまじゃ。あんたが生まれたときから、ずっと見とる。遠くに越してきても、あんたの帰る場所とは、ちゃんとつながっとるんじゃよ」
胸の奥が、きゅっとなった。祖母の家の縁側。夏祭りの神輿の掛け声。忘れかけていた景色が、ふいに近くなる。
「わしはの、別にお供えがほしいわけじゃない」
おじいさんは、私の顔をじっと見上げた。
「ここはな、わしのための場所というより、あんたが毎朝、自分の真ん中に戻るための場所なんじゃ。家の中に一か所でも、ちゃんと整った場所があるとな、人は迷子にならずにすむ。ばあちゃんは、毎朝ここで手を合わせて、自分に戻っとった」
自分の真ん中に戻る。その言葉を聞いて、ようやく、この半年の浮いたような感覚の正体がわかった気がした。私はずっと、戻る場所を持たないまま、毎日を走っていたのだ。
「それとな」
おじいさんは、天井を見上げて、困ったように眉を下げた。
「ここは二階じゃろう。上にも人が住んどる」
「はい、三階建てなので」
「そういうときはな、天井に『雲』と一文字書いて貼ってくれればええ。そうすりゃ、わしの上には空しかないことになる」
「そんなので、いいんですか」
「そんなのでええんじゃ。大事なのは、形よりも、気にかける心じゃよ」
おじいさんは、にやりと笑って、神棚の中へ戻っていった。扉が閉まる直前、小さな声が聞こえた。
「ばあちゃんに、よろしくな」
目が覚めると、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。
私は、本棚の上の神棚をそっと下ろし、やわらかい布でほこりを拭った。コップに水を汲み、小皿に塩を盛る。それから、メモ用紙に筆ペンで大きく「雲」と書いて、神棚の真上の天井に貼った。
二礼、二拍手、一礼。
手を合わせて目を閉じると、不思議なほど心が静まった。部屋の中の、ほんの小さな一角が整っただけなのに、まるで自分の足が、ちゃんと床についたような感覚だった。
その夜、久しぶりに祖母に電話をかけた。神棚を掃除したと話すと、祖母は電話の向こうで、うれしそうに笑った。
「あら、神さまも喜んどるわ。毎朝手を合わせるとね、ちゃんと自分に戻れるのよ」
夢の中のおじいさんと、同じことを言っていた。
こちらもオススメ
神棚の夢が持つ本来の意味についてはこちらの夢占い記事で、ユングの「自己」やエリアーデの「聖なる空間」、古代ローマや中国の家の神々との比較についてはこちらの夢ことほぎ記事で、それぞれ詳しく解説しています。


コメント