
夢の中で、私は、屋根裏部屋の扉に鍵をかけていた。
古い真鍮の鍵を回すと、かちり、と重い音がした。扉の向こうで、誰かが小さく扉を叩いている。とん、とん、とん。弱々しい音だった。
「ここにいれば、安全だから」
私は、扉に向かってそう言った。自分の声とは思えないほど、落ち着いた声だった。
扉の下のすき間から、細い指先がのぞいた。絵の具で汚れた、少女の指だった。
――目が覚めると、喉がからからに渇いていた。
その夢を見るようになったのは、娘の芽衣が、高校二年生になった春からだった。
芽衣は、美術部に入りたいと言い出した。私は反対した。成績が下がったら、志望校に届かなくなる。将来のことを考えたら、絵なんて、趣味で十分だ。
それから私は、芽衣のスマートフォンに、位置情報が分かるアプリを入れさせた。帰りが少しでも遅れると、電話をかけた。友達と出かけると言えば、相手の名前と連絡先を聞いた。
全部、芽衣のためだった。そう思っていた。
けれど、芽衣は、日に日に口をきかなくなった。食事が終わると、すぐに自分の部屋にこもり、鍵をかけるようになった。
ある夜、私は、本当に物音で目を覚ました。
とん、とん、とん。
天井の上から、何かを叩く音がする。夢の中と、同じ間隔だった。隣で眠る夫は、ぴくりとも動かない。私は、息を殺して天井を見つめた。音は、しばらく続いてから、ふっと止んだ。
翌朝、夫に話すと、「風で、どこかの板が鳴ったんだろう」と笑われた。けれど、私は、その日一日じゅう、天井の上が気になって仕方なかった。屋根裏には、もう何年も上がっていない。何をしまったのかさえ、思い出せなかった。
五月のある夜、私は、芽衣の位置情報を見て、凍りついた。
塾にいるはずの時間に、芽衣は、駅の反対側の、知らない場所にいた。
電話をかけても、出ない。もう一度かける。出ない。私は、上着をつかんで家を飛び出し、地図が示す場所へ向かった。
そこは、小さな古いビルの二階だった。階段を上がると、ドアのすき間から、油絵の具の匂いがした。そっと中をのぞくと、芽衣が、イーゼルの前に座っていた。
社会人向けの、絵画教室だった。
芽衣は、真剣な顔で、カンバスに筆を走らせていた。家では見たことのない、生き生きとした横顔だった。
私は、声をかけられなかった。そのまま、階段を下りて、家に帰った。
その夜、また、屋根裏の夢を見た。
扉の向こうで、とん、とん、と叩く音がする。私は、鍵穴に耳を寄せた。すると、扉の向こうから、かすかな声が聞こえた。
「出して。お願い、ここから出して」
それは、芽衣の声ではなかった。もっと幼い、けれど、どこかで聞いたことのある声だった。
翌朝、私は、ずっと開けていなかった、家の屋根裏の物置に上がった。
夢と同じ、古い扉。鍵はかかっていなかった。ほこりっぽい空気の中で、段ボール箱の山の奥に、それはあった。
私が、高校生のときに使っていた、スケッチブックの束だった。
震える手で、一冊を開いた。鉛筆で描いた、窓辺の猫。水彩で塗った、夕焼けの川。どのページにも、絵を描くのが楽しくて仕方なかったころの、私がいた。
思い出した。
私も、美術部に入りたかった。けれど、母に反対された。絵では食べていけない。ちゃんとした大学に行きなさい。私は、言われたとおりにした。スケッチブックを箱に詰めて、屋根裏にしまい、鍵をかけるように、その気持ちを心の奥に閉じこめた。
夢の中で、扉を叩いていたのは、芽衣ではなかった。あれは、私が閉じこめた、十七歳の私だったのだ。
そして私は、自分が閉じこめられたのと同じやり方で、今度は娘を閉じこめようとしていた。縛れば縛るほど、芽衣が遠ざかっていったのは、当然だった。
その夜、芽衣が帰ってくると、私は、リビングのテーブルに、古いスケッチブックを広げて待っていた。
「……なに、これ」
「お母さんが、高校生のときに描いたの」
芽衣は、驚いた顔で、ページをめくった。窓辺の猫のところで、手が止まった。
「うまいじゃん」
「昨日、あなたの絵画教室、見に行った」
芽衣の顔が、さっとこわばった。私は、首を横に振った。
「怒ってない。ごめんね。お母さん、あなたを守るつもりで、ずっと閉じこめてた」
それから私は、位置情報のアプリを、芽衣の目の前で削除した。
芽衣は、しばらく黙っていた。それから、小さな声で言った。
「……美術部、入ってもいい?」
「いいよ。そのかわり、今度、教室で描いた絵、見せて」
芽衣は、少しだけ笑った。久しぶりに見る、娘の笑顔だった。
その夜、また、屋根裏の夢を見た。
私は、真鍮の鍵を手に、扉の前に立っていた。とん、とん、と叩く音がする。私は、鍵を回した。
かちり。
扉を開けると、そこには、絵の具で指を汚した十七歳の私が、スケッチブックを抱えて立っていた。少女は、まぶしそうに目を細めてから、屋根裏の窓を大きく開け放った。
外では、芽衣が、イーゼルを抱えて、こちらに手を振っていた。
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