【夢物語】ひと晩おいた鍋|カレーの夢

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【夢物語】ひと晩おいた鍋|カレーの夢

夢の中で、僕は実家の台所の前に立っていた。

コンロの上で、大きな鍋がことこと鳴っている。玄関まで漂ってくる、甘くて、少しスパイスのきいた匂い。母さんのカレーの匂いだった。

「ご飯よ」

母さんの声がして、僕はテーブルについた。湯気の立つ皿に、大きなじゃがいもと、くたくたに煮えた玉ねぎ。スプーンですくって、口に運ぶ。

味が、しなかった。

もう一口。やっぱり、何の味もしない。顔を上げると、テーブルの向かいには誰もいなくて、湯気の向こうの台所も、しんと静まりかえっていた。

――目が覚めると、ワンルームの天井が見えた。

東京に出てきて、三年になる。仕事にはそれなりに慣れたけれど、帰りはいつも遅く、夕飯はコンビニの弁当か、駅前の牛丼ですませていた。休みの日も、誰とも話さずに終わることが多い。

その日の帰り道、住宅街を歩いていると、どこかの家の窓から、カレーの匂いが漂ってきた。

その瞬間、胸がぎゅっとしめつけられた。

小学校から帰ってきたときの台所。部活で泥だらけになった日の、大盛りの皿。受験の前の夜に、母さんが「験かつぎね」と言ってのせてくれた、トンカツ。匂いをかいだだけで、忘れていたはずの場面が、次から次へとよみがえってきた。

週末、僕はスーパーで、カレーの材料を買いこんだ。

記憶をたよりに作ってみる。じゃがいもは大きめ、にんじんは乱切り、玉ねぎはよく炒める。けれど、できあがったカレーは、どこか違っていた。まずくはない。でも、あの味ではなかった。

その夜、僕は一人で、そのカレーを食べた。

テレビの音だけが、部屋に響いている。三日分のつもりで作った鍋は、ほとんど減らなかった。

翌日の昼休み、コンビニのおにぎりを机で食べていると、同期の佐々木が、僕の手もとをのぞきこんだ。

「おまえ、いつもそれだよな。たまには、ちゃんとしたもの食ってる?」

「昨日、カレー作ったよ。あんまりうまくいかなかったけど」

「へえ、自炊するんだ。意外」

佐々木はそう言って笑ったけれど、僕は、うまく笑い返せなかった。

その夜、スマホの写真をさかのぼっていると、実家の食卓の写真が出てきた。三年前の正月に、妹が撮ったものだ。大皿のカレーを囲んで、父さんと弟が、最後のひとすくいを取り合っている。母さんが、あきれた顔で笑っている。

写真の中のカレーは、湯気まで、おいしそうに見えた。

僕は、久しぶりに実家に電話をかけた。

「母さんのカレーって、何が入ってるの」

「どうしたの、急に」

母さんは笑いながら、すりおろしたりんごを少しと、はちみつを入れること、それから、必ずひと晩おくことを教えてくれた。

「でもね」

電話の向こうで、母さんは少し考えてから言った。

「いちばんの隠し味は、みんなで食べることよ。あんたたちが『おかわり』って言うから、毎回たくさん作ってたの。一人分だけ作っても、あの味にはならないわよ」

その言葉が、ずっと耳に残った。

次の週末、僕は、いつもより大きな鍋で、たくさんのカレーを作った。りんごをすりおろし、はちみつを垂らして、ひと晩おいた。

そして、会社の同期の二人と、隣の部屋に住む大学生に声をかけた。顔を合わせればあいさつをするくらいの、まだよく知らない人たちだった。

「作りすぎちゃって。よかったら、食べに来ませんか」

狭いワンルームに、四人が座った。ちゃぶ台の上に、ふぞろいの皿が並ぶ。

「うまっ」

同期の一人が、最初の一口で目を丸くした。

「これ、店のよりうまいかも」

「なんか、実家の味がする」

隣の大学生が、ぽつりと言った。彼も、地方から一人で出てきたのだという。

「うちのカレー、ちくわが入ってたんですよ」

大学生が言うと、佐々木が「まじか」と声を上げた。

「うちは、生卵を落とすのが決まりだった。じいちゃんが、そうしてたらしくて」

もう一人の同期は、カレーにソースをかける派だった。みんなが、それぞれの家のカレーの話をした。同じカレーなのに、家の数だけ、違う味があった。

話を聞いているうちに、僕は、母さんの台所の匂いを、また思い出していた。きっと、みんなも、自分の家の台所を思い浮かべているのだろう。小さな部屋に、四つの家の食卓が、重なっているような気がした。

気がつけば、鍋はすっかり空になっていた。おかわりの声が、何度も上がった。ひと晩寝かせたカレーは、少しだけ母さんの味に近づいていた気がした。けれど、それ以上に、みんなで食べるカレーは、おいしかった。

自分で手間をかけて作ったものを、誰かが「おいしい」と言ってくれる。それがこんなにうれしいことだったなんて、僕は、知らなかった。

その夜、また、あの夢を見た。

実家の台所の、大きな鍋。テーブルについて、カレーをひと口食べる。

今度は、ちゃんと味がした。甘くて、少し辛くて、温かい味。

顔を上げると、テーブルの向かいには、母さんと、同期の二人と、隣の部屋の大学生が座っていた。みんなが、口々に「おかわり」と言って、笑っていた。

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