【夢物語】消さない線|鉛筆の夢

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【夢物語】消さない線|鉛筆の夢

夢の中で、私は鉛筆を握って、白い壁の前に立っていた。

壁に、そっと一本の線を引く。線は、ゆるやかなカーブを描いて、どこまでも伸びていった。肩の丸み。首すじ。耳のうしろの、やわらかなくぼみ。

気づくと、私が描いていたのは、壁ではなかった。

誰かの、裸の背中だった。

鉛筆の先が、背骨のくぼみを、上から下へゆっくりとなぞっていく。その人が、小さく息を吸う気配がした。振り向こうとする横顔が見えかけたところで、私は慌てて消しゴムを探した。

――目が覚めると、頬が熱かった。

三十二歳になって、私は、週に一度の社会人向けのデッサン教室に通いはじめた。子どものころは絵を描くのが好きだったのに、いつからか、間違えるのが怖くなって、描くことから遠ざかっていた。

最初の三回は、りんごや石膏像を描いた。

「消しゴムは、できるだけ使わないでください」

白髪まじりの先生は、教室を回りながら言った。

「間違えた線も、次の線の道しるべになります。迷った線ごと重ねていけば、そのうち、本当の形が浮かんでくるから」

それでも、私の手は、すぐに消しゴムへ伸びた。りんごの輪郭が少しでもゆがむと、こすって、消して、描き直す。気づけば、画用紙はいつも、消し跡で灰色にくすんでいた。

ふと、斜め前の席に目をやると、透さんが描いていた。

長い腕を伸ばして、肩から大きく鉛筆を動かしている。迷った線も、はみ出した線も、そのまま残して、その上に新しい線を重ねていく。不思議なことに、線が増えるほど、紙の上のりんごは、ふっくらと丸みを帯びていった。

私は、自分のりんごより、彼の手ばかり見ていた。節のある長い指。鉛筆を軽く握る、力の抜けた手首。

見とれていたことに気づいて、慌てて目をそらした。

その夜の課題は、二人一組で、互いの顔を描くことだった。

私の向かいに座ったのは、透さんという人だった。同じ時期に入ってきた、口数の少ない、建築事務所に勤める人。ペアを組むのは、初めてだった。

「二十分です。相手の顔を、よく見て描いてください」

先生の声で、教室が静かになった。

描くためには、見なければならない。私は、透さんの顔を見つめた。少し伏せたまつ毛。まっすぐな鼻すじ。顎の下から、シャツの襟もとへ続く、首の線。喉ぼとけが、ときどき小さく動く。

透さんも、私を見ていた。

鉛筆を動かすたびに、視線が重なる。そらしても、また重なる。顔を描かれているだけなのに、まるで、指先でなぞられているような気がした。

唇だけが、どうしても描けなかった。

描いては消し、描いては消した。紙が、そこだけ薄く毛羽立っていく。

「もっと、見てもいいですよ」

透さんが、小さな声で言った。

顔を上げると、彼は少しだけ笑っていた。その唇の形を、私は、もう一度見つめた。上唇の山。口角の、かすかな影。

二十分が終わったとき、私の画用紙には、唇のない彼の顔が残っていた。

教室を出ると、雨が降っていた。傘を忘れた私に、透さんが、自分の傘を傾けた。肩が触れる。雨の音にまぎれて、彼のシャツから、鉛筆の削りかすのような、木の匂いがした。

駅前のバーで、私たちは並んで座った。

「唇、何度も消してましたね」

「……うまく描けなくて」

「消しすぎなんですよ」

透さんは、カウンターに置いたスケッチブックを開いて、私の手に鉛筆を握らせた。それから、私の手の上に、自分の手を重ねた。

「力を抜いて。線は、指先じゃなくて、肩から引くんです」

彼の手に導かれて、紙の上に、一本の線が引かれていく。すぐ耳もとで、彼の息づかいが聞こえた。グラスの氷が、からん、と鳴った。

迷いのない、なめらかな線だった。

「僕も、昔は消してばかりでした」

透さんは、グラスを見つめながら言った。

「建築の学校で、図面を何枚も破られたんです。線が一本違うだけで、建物は建たないって。それから、線を引くのが怖くなった」

「でも、いまは、あんなふうに描けるのに」

「図面は、消せない線です。だから、そのまえに、スケッチで何十回も間違えておく。ここは、間違えていい場所なんですよ」

「間違えたら、また描けばいい。鉛筆って、そういうものでしょう」

重なった手が、なかなか離れなかった。離そうとも、思わなかった。

駅の改札の前で、透さんは立ち止まった。

「さっきの続き、描いてもいいですか」

何の続きなのか、聞かなくても分かった。

改札を行き交う人の足音が、ふっと遠くなった。雨のにおいと、彼のシャツの木の香りが、すぐそばにあった。

私が目を閉じると、彼の唇が、そっと私の唇に触れた。描けなかった線の形を、私は、そのとき初めて知った。

その夜、また、あの夢を見た。

白い背中に、私は鉛筆で線を引いていく。今度は、消しゴムを探さなかった。背中の持ち主が、ゆっくりと振り向いた。

透さんだった。

私は、彼の唇の線を、迷わずに描いた。一度も消さずに。

翌週の教室で、私は、あの日の画用紙を取り出した。唇のない彼の顔に、鉛筆を当てる。

肩から、まっすぐに線を引いた。

向かいの席で、透さんが、静かに笑っていた。

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