
えー、「壁に耳あり障子に目あり」なんてことを申します。どこで誰が聞いているかわからねえから、うかつなことは言うもんじゃない、という戒めでございますが、これがまた、うかつな奴に限ってよく喋る。
神田の長屋に、熊五郎という左官がおりまして。壁を塗らせりゃ腕は確か、ところが口のほうは、どうにも塗りが粗い。
「ご隠居、ちょいと聞いておくんなさい。ゆんべ、とんでもねえ夢を見ちまって」
「なんだい熊さん、藪から棒に」
「夜道をね、こう、ほろ酔いで歩いてたんでさあ。そしたら急に、目の前がどーんと壁になった。右へ行こうが左へ行こうが、どこまでも壁。押しても引いてもびくともしねえ」
「ほう」
「こちとら左官だ、壁の扱いならお手のもんだってんで、拳でどんどん叩いてみた。びくともしねえ。よじ登ってやろうとしたら、つるっと滑って尻もちだ。そしたらね、その壁が、ぬうっと口をきいたんで」
「壁が口をきいたかい」
「『上を叩いたって無駄だよ』って。気味が悪いのなんのって、飛び起きちまった」
ご隠居、膝をぽんと打ちまして。
「そりゃあお前さん、ぬりかべだ」
「ぬりかべ?」
「九州のほうに伝わる話でな、夜道で急に前が壁になって、どこへも行けなくなる。上のほうをいくら叩いても消えねえが、棒で足元を払うと、すうっと消えるんだそうだ」
「へえ、足元をねえ」
「それにな、壁の夢ってのは、二つの顔を持ってる。ひとつは、行く手をふさぐ障りの顔。もうひとつは、身を守ってくれる囲いの顔だ。熊さん、お前さん、近ごろ何かに行く手をふさがれちゃいねえかい」
熊五郎、しばらく黙っておりましたが、やがて、ぼりぼりと頭をかきまして。
「……実はね、ご隠居。あっしも、そろそろ一本立ちしてえと思ってるんで。ところが、それを親方に言い出せねえ」
「なぜ言わない」
「なぜって、ご隠居、うちの親方を知ってるでしょう。石頭で、口うるさくて、こっちが何か言やあ『十年早え』だ。ありゃあ人間じゃねえ、塗り壁だ。いや、塗り壁のほうがまだ話がわからあ!」
「しっ、声が大きい。壁に耳ありだよ」
「なあに、平気でさ。こんな分厚い壁」
「いいかい熊さん。お前さんがやってるのは、上ばっかり叩いてるのと同じだ。親方がどうの、十年早えがどうのと、壁のてっぺんを眺めて文句ばかり言ってる。足元を払うってのはな、自分が今できることに手をつけるってことだ。お前さんの足元にあるのは何だい」
「足元……」
「一言だよ。『一本立ちさせてください』って、まっすぐ頭を下げる。それだけのことじゃないか。お前さんは、自分で自分の前に壁を塗り固めちまってるんだ」
熊五郎、ぐっと言葉に詰まった、そのときでございます。
「……聞こえてるぞ、熊」
壁の向こうから、低い、よく通る声。
「お、お、親方!?」
そう、このご隠居の家、熊五郎の親方の家と、壁一枚でお隣同士。
「石頭で、口うるさくて、塗り壁以下、だったか」
「い、いや、そいつは、その、言葉のあやってやつで……」
「まあいい。熊、壁ってのはな、塗る前の下地が肝心だ。下地をいい加減にしたまま上っ面だけ塗ったって、すぐにひびが入る。言いてえことがあるなら、まっすぐ言え。そいつが下地だ」
「へ、へえ……」
「一本立ちしてえんだろう。来月から、自分の名前で仕事を取ってみな。困ったら、いつでも顔を出しゃいい」
「お、親方……!」
熊五郎、壁に向かって深々と頭を下げまして。いやあ、行く手をふさいでいた壁が、ふっと消えたような心持ちで。
ご隠居、感心したように壁を眺めまして。
「しかしなんだね、熊さん。これほど筒抜けとは思わなかった。この壁、塗ったのはたしか、お前さんだったな」
「へえ。薄く塗っといて、ようござんした」
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