
最初の夜、エレベーターは一階で止まらなかった。
十四階から乗った箱は、いつもどおり静かに下りていった。扉の上の表示が、十二、十一、十と変わっていく。三、二、一。ここで止まるはずだった。
けれど、表示はそのまま、ひとつ下へと変わった。
B1。
私の住むマンションに、地下はない。
箱は止まらずに下りつづけ、やがて、ふっと足もとが軽くなった。落ちている、と気づいた瞬間、胃のあたりが浮き上がり、体がびくっと跳ねて、目が覚めた。
枕元の時計は、三時十四分を指していた。
先月、私はチームのリーダーになった。三十歳での抜擢だと、上司は言った。期待しているよ、とも。それから毎日、誰よりも早く出社し、誰よりも遅く帰った。部下の企画を直し、取引先に頭を下げ、夜中に届くメールにも返事をした。
できる、と思っていた。ここまで上ってきたのだから。
二日目の夜、表示はB2まで下りた。三日目はB3。夢の中の箱は、毎晩、少しずつ深いところまで落ちていく。そして、そのたびに、私は三時十四分に目を覚ました。
五日目の夜、私は夢の中で、箱の奥の鏡に気づいた。
エレベーターの壁に貼られた、細長い鏡。そこに映る私は、スーツを着て、背筋を伸ばし、口もとに笑みを浮かべていた。会議で部下の前に立つときの、あの顔だった。
私は、笑っていない。
鏡の中の私だけが、ゆっくりと、こちらに向かって会釈をした。
B5。B6。
翌朝、本物のエレベーターに乗ったとき、私は扉の上の表示から目を離せなかった。十四、十三、十二。ちゃんと、一階で止まった。当たり前だ。ほっと息を吐いて、外に出ようとしたとき、表示が一瞬だけ、ちらついたように見えた。
B7。
振り返ったときには、もう「1」に戻っていた。
「このマンション、地下ってありましたっけ」
管理人室の小窓から、思わずたずねた。年配の管理人は、首をかしげた。
「ありませんよ。基礎の下は、ただの土です」
その日、会議で部下の企画を見ているあいだも、私の目は、資料の数字ではなく、どこか遠くの表示を追っていた。B7、B8。いったい、どこまで落ちていくのだろう。
七日目の夜。
夢の箱は、もう止まる気配もなく、真っ暗な縦穴を落ちつづけていた。表示は、数字を数えるのをやめていた。ただ、「B」の文字だけが、赤く灯っていた。
鏡の中の私は、まだ笑っていた。完璧な笑顔のまま、こちらを見ていた。
私は、非常ボタンに手を伸ばした。押すと、ざざっという雑音のあと、スピーカーから声がした。
「どちらまで、お降りになりますか」
その声は、私の声だった。
「……止めてください。お願いだから、止めて」
「止める必要は、ありません」
スピーカーの中の私は、静かに言った。
「あなたは、ずっと上りつづけてきました。上りすぎて、もう、足もとが見えなくなっていたでしょう。だから、地面のあるところまで、お連れしているだけです」
足もとが、見えなくなっていた。
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。抜擢されてから、私は一度も、下を見なかった。疲れていることも、怖いことも、誰にも言わなかった。上ることだけを、考えていた。
がくん、と箱が揺れて、止まった。
扉が、ゆっくりと開いた。
その先にあったのは、暗闇ではなかった。湿った土の匂いがした。足もとには、やわらかな地面があった。ただの土。管理人の言っていた、基礎の下の土だった。
鏡を振り返ると、鏡の中の私は、もう笑っていなかった。ひどく疲れた、少し泣きそうな顔で、こちらを見ていた。私と、まったく同じ顔だった。
「もう、上らなくていい」
それが、スピーカーの声だったのか、自分の声だったのかは、わからない。
目を覚ますと、時計は六時半を指していた。三時十四分ではなかった。
その日、私は上司に時間をもらい、いま抱えている仕事の量と、正直な気持ちを話した。一人で抱えこまなくていいんだよ、と上司は少し驚いた顔で言った。
帰り道、マンションのエレベーターの前で、私は立ち止まった。扉の上の表示は、静かに「1」を灯している。
私は、隣の階段を選んだ。十四階まで、自分の足で、一段ずつ上った。息は切れたけれど、足もとはちゃんと見えていた。
それからは、あの夢を見ていない。
ただ、ときどき、エレベーターの表示が、ほんの一瞬だけ、ちらつくことがある。
そのたびに私は、足もとを確かめる。まだ、地面はそこにあるかと。
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