
子どものころ、千秋はよく空を飛ぶ夢を見た。
団地の四階のベランダから、洗濯物のあいだをくぐって外へ出る。つま先で手すりを軽くけると、体はふわりと浮かび、給水塔のてっぺんをかすめて、商店街のアーケードの上を越えていく。夢の中の千秋は、飛び方を誰にも教わらなかった。ただ、知っていた。
最後に飛んだのがいつだったか、四十二歳の千秋には思い出せない。
いつのまにか、夢は会議と締め切りでいっぱいになった。目覚ましより先に目が覚めて、天井を見ながら今日の段取りを組み立てる。それが、ここ何年もの朝だった。夢を見なくなったのか、見ても忘れてしまうのか。それすら考えたことはなかった。
父が転んだと電話があったのは、梅雨の終わりだった。
骨は折れていなかったが、右の手首をひどくひねって、しばらく一人で着替えもできないという。千秋は週末ごとに、電車で一時間半かけて実家に通うことにした。
実家の居間は、子どものころとほとんど変わっていなかった。父は座椅子に深く沈みこみ、包帯を巻いた手首を膝の上にのせていた。
「悪いな。仕事、忙しいんだろう」
「いいよ。どうせ週末は寝てるだけだし」
そう答えながら、千秋は父の肩がずいぶん薄くなったことに気づいていた。昔はこの肩に乗せてもらって、夏祭りの人ごみの上から神輿を見たのだ。
週末の実家では、千秋が台所に立って父の好きな煮物を作った。父は左手でぎこちなく箸を使いながら、味が母さんに似てきたなと言った。母が亡くなって、もう八年になる。
三度目の週末、押し入れの奥から古いアルバムが出てきた。
父に頼まれて、薬の説明書きを探していたときだった。色あせた表紙をめくると、団地の前の小さな公園で、若い父が両腕を高く突き上げている写真があった。その腕の先、写真のいちばん上の端に、空に放り上げられた小さな千秋が写っている。両手を広げて、口を大きく開けて笑っていた。
「これ、覚えてる?」
千秋がアルバムを差し出すと、父は老眼鏡をかけ直して、しばらく写真を見つめた。
「ああ。お前、これが好きでな。何回やっても『もう一回』って言うんだ。腕が上がらなくなるまでやらされた」
「怖くなかったのかな、私」
「怖がってたよ。いちばん上で、一瞬だけ顔がこわばるんだ。でも、落ちてくると必ず笑った。受け止めてもらえるって、わかってたんだろうな」
父はそう言って、包帯の手首を少しだけ持ち上げてみせた。
「もう、放り上げてやれんな」
千秋は笑ってみせたが、うまく笑えたかどうかはわからなかった。
アルバムの次のページには、同じ公園で父が千秋を肩車している写真があった。千秋は父の頭にしがみつき、空のほうへ片手を伸ばしている。その手が何をつかもうとしていたのか、写真の中の自分に聞いてみたい気がした。
その夜、千秋は実家の二階の、昔の自分の部屋で眠った。
天井の木目は、子どものころに数えたときと同じ形をしていた。窓を少し開けると、どこかで蛙が鳴いていて、遠くを走る電車の音が、風に乗ってかすかに届いた。
目を閉じると、すぐに眠りが来た。

気がつくと、千秋は団地の前の公園に立っていた。
夕方だった。ブランコも砂場も、記憶よりずっと小さい。千秋は四十二歳の体のまま、そこに立っていた。
つま先で、地面を軽くけってみた。
何も起きなかった。もう一度けっても、体は重たく地面に戻ってくる。そうだよね、と千秋は思った。もう飛べるはずがない。
そのとき、背中のほうから声がした。
「もう一回、だろ」
振り返ると、若いころの父が立っていた。日に焼けた腕をまくり上げて、写真と同じように笑っている。
父の両手が千秋の脇の下に差しこまれ、ぐん、と体が持ち上がった。四十二歳の体が、嘘のように軽い。いちばん高いところで、千秋は一瞬だけ息を止めた。
そして、落ちなかった。
体はそのまま、ふわりと夕方の空へ浮かんだ。下を見ると、父が両腕を上げたまま、小さくなっていく。団地の給水塔が見えた。商店街のアーケードが見えた。四階のベランダには、洗濯物が揺れている。
飛び方は、やはり知っていた。忘れていたのではなく、しまってあっただけだった。
アーケードの屋根を越えて川沿いの土手を越えると、町はずれの田んぼが夕日を映して金色に光っていた。どこまでも行けそうな気がしたが、千秋はふと速度をゆるめ、大きな輪をえがいて公園の上へ戻った。行きたい場所は遠くではなかった。
風の中で、千秋は声を出して笑った。いちばん上で顔がこわばったのかどうかは、自分ではわからない。ただ、下にはまだ、両腕を上げたままの父がいた。
目を覚ますと、窓の外が白く明るくなっていた。
階段を下りていくと、父はもう起きていて、左手だけで不器用に湯を沸かしていた。
「早いな」
「なんか、よく寝た」
千秋は父の手からやかんを受け取り、二人分の湯のみに茶を注いだ。父の手首の包帯は、来週には取れるだろうと医者に言われている。
茶をすすりながら、千秋は夢の話をしようか迷って、やめた。言葉にすると、あの軽さが逃げてしまいそうな気がした。
「お父さん」
「ん?」
「手首が治ったら、ちょっと公園まで歩こうか」
父は不思議そうな顔をしたが、何も聞かずにうなずいた。
縁側の向こうで、梅雨明けの空が高く晴れていた。千秋はしばらく、その青をまぶしそうに見上げていた。
この夢の意味は → 【夢占い】空を飛ぶ夢
なぜこの夢を見るのか → 【夢ことほぎ】空を飛ぶ夢

