
夢の中で、私は法廷の真ん中に立っていた。
高い席から、裁判官が見下ろしている。その顔は、すりガラスの向こうにあるようにぼやけていて、表情が分からない。
「被告人は、取引先への大切な連絡を怠り、会社に損害を与えた。認めますか」
私は、そんなことはしていない。そう言おうとして口を開いたのに、声が出なかった。喉の奥に、綿が詰まっているみたいだった。
傍聴席から、ひそひそとささやく声がする。
「やっぱりね」
「あの人なら、ありえる」
木槌が、かん、と鳴った。
――目が覚めると、窓の外はまだ暗かった。
三日前のことだ。取引先から、納期の変更の連絡が届いていないという苦情が入った。課長は、部署のみんながいる前で、私のほうを振り返った。
「連絡の担当、佐伯さんだったよね」
送ったはずだった。たしかに、送った。けれど、みんなの視線が集まった瞬間、頭の中が真っ白になって、私の口から出たのは「申し訳ありません」という言葉だけだった。
それから、私は少しずつ分からなくなっていった。本当に送っただろうか。送ったつもりになっていただけかもしれない。疲れていたし、あの日は忙しかった。考えれば考えるほど、自分の記憶が、薄い紙のように頼りなく思えてくる。
隣の席の同僚が、前より少しだけ、私に話しかけなくなった気がした。
日曜日、私は祖母の家を訪ねた。祖母は、町の天満宮のすぐ近くに住んでいる。二月の境内には、白い梅がほころびはじめていた。
「あんた、元気がないね」
梅の木の下で、祖母が私の顔をのぞきこんだ。私は、仕事のことを、ぽつりぽつりと話した。自分でも、本当に送ったのか分からなくなっていることも。
祖母は、しばらく黙って梅を見上げていた。
「天神さまもね、濡れ衣を着せられたお方なんだよ」
「菅原道真、だっけ」
「そう。偉い学者さんだったのに、悪いたくらみをしていると言われて、遠い九州へ追いやられた。都を離れるとき、庭の梅に歌を詠んだら、梅は主人を慕って、九州まで飛んでいったんだって」
祖母は、枝の先の小さな花を指さした。
「でもね、天神さまの名誉が戻ったのは、亡くなってから、ずっとあとのことだった。だから、生きているあんたは、自分で言わなきゃいけない」
「でも、自分でも自信がないの」
「昔はね、本当のことを確かめるのに、煮え立ったお湯に手を入れさせたんだって。いまは、そんな恐ろしいことをしなくてもいいでしょう。あんたの仕事には、ちゃんと記録が残っているんじゃないの」
記録。
私は、はっとした。
「それにね」
祖母は、私の手を、しわだらけの手で包んだ。
「まず、あんたが、あんたを信じてやりなさい。自分で自分を疑いはじめたら、味方が一人もいなくなっちゃうよ」
月曜日の朝、私は誰よりも早く出社して、送信済みのメールをさかのぼった。
あった。
十二日の午後四時五分。納期の変更を知らせるメールは、取引先の担当者あてに、たしかに送られていた。先方に問い合わせてみると、担当者が先月から別の部署に移っていて、そのアドレスに届いたメールは、誰にも読まれないままになっていたことが分かった。
私は、印刷したメールを持って、課長の席へ向かった。手は少し震えていたけれど、声は、ちゃんと出た。
「先日の件ですが、連絡は送っていました。こちらが、その記録です」
課長は、メールをじっと読んで、それから深く頭を下げた。
「確かめもせずに、決めつけて悪かった」
席に戻ると、隣の同僚が、小さな声で言った。
「佐伯さんが忘れるはずないって、思ってたんだけどね。あのときは、何も言えなくて、ごめん」
その夜、私はまた、あの法廷の夢を見た。
裁判官が、高い席から私を見下ろしている。
「認めますか」
「いいえ」
今度は、はっきりと声が出た。
「私は、送っています」
そのとき、すりガラスのようにぼやけていた裁判官の顔が、すうっと晴れていった。
そこにいたのは、私だった。
疑いの目で私を見つめ続けていたのは、ほかの誰でもない、私自身だったのだ。
高い席の私は、小さくうなずくと、木槌を、音も立てずにそっと机に置いた。
法廷の窓の外で、白い梅が咲いていた。
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