
最初に気づいたのは、机の上の一枚の白い紙だった。
夢の中の私の部屋は、現実とそっくり同じだった。ベッドの位置も、窓辺の観葉植物も、読みかけの文庫本も。ただ、机の上に、見覚えのない白い紙が一枚、きちんと置かれていた。
指で触れた瞬間、紙の上に、じわりと文字が浮かび上がった。
「本当は、行きたくなかった」
私の字だった。
先週の同窓会のことだと、すぐにわかった。誘われて、断れなくて、三時間ずっと笑っていた。帰りの電車で、どっと疲れが出た夜のことだ。
次の夜、紙は十枚に増えていた。触れるたびに、文字が浮かぶ。
「その言い方は、少し傷つきました」
「本当は、手伝ってほしかった」
「大丈夫じゃない」
どれも、言わずに飲み込んだ言葉だった。
三日目の夜、部屋は紙で埋まっていた。床にも、ベッドの上にも、白い紙が雪のように積もっている。歩くたびに、かさり、かさりと乾いた音がした。
そして、机の前に、誰かが座っていた。
人の形に切り抜かれた、大きな白い紙だった。頭と、胴と、手足がある。神社の祓いで見たことのある、形代にそっくりだった。
形代は、私のペンを握って、スマートフォンに文字を打ち込んでいた。
「大丈夫です」
「問題ありません」
「喜んで」
画面の中で、友人たちが次々と返信してくる。ありがとう、助かる、やっぱり頼りになるね。形代は、それを受け取るたびに、紙の顔の上に少しずつ、墨で目鼻を描き足していった。
描かれていく顔は、私の顔だった。
「やめて」
言おうとした。けれど、私の喉から出たのは、かさり、という紙の擦れる音だけだった。
慌てて自分の手を見る。指先が、白く、薄く、透けはじめていた。光にかざすと、向こう側が見える。形代が私の顔を手に入れるほど、私のほうが紙になっていく。
形代が、ゆっくりとこちらを振り向いた。墨で描かれた私の顔が、にっこりと笑った。
「あなたの代わりに、ぜんぶ引き受けてあげる。あなたは、もう何も言わなくていいの」
その笑顔は、毎日鏡の前で練習してきた、私のいちばん「感じのいい」笑顔だった。
私は、床に積もった紙の山に手を突っ込んだ。震える指で、まだ何も書かれていない一枚を探し当てる。机の上のペンを、形代の手からもぎ取った。
声が出ないなら、書くしかなかった。
「わたしは、疲れている」
書いた瞬間、形代の顔の墨が、じわりとにじんだ。
私は、次の一行を書いた。
「本当は、行きたくなかった」
さらに一行。
「大丈夫じゃない日も、ある」
書くたびに、指先に色が戻ってくる。形代の顔は、雨に打たれた貼り紙のように、にじんで、流れて、やがて、ただの白い紙に戻っていった。
そのとき、祖母の言葉を思い出した。夏越の祓の日、神社で形代に息を吹きかけながら、祖母は言っていた。
「これはね、あんたの代わりに、悪いもんを持っていってくれるの。あんたになってもらうためのもんじゃないよ」
形代は、身代わりになるものじゃない。持ちきれないものを、手放すためのものなのだ。
私は、真っ白に戻った形代を抱えて、部屋を出た。夢の中の廊下は、そのまま夜の川べりにつながっていた。私は、形代の胸に、さっき書いた三つの言葉を書き写した。そして、そっと水面に浮かべた。
白い形代は、月明かりを受けながら、ゆっくりと流れていった。
目が覚めると、喉がからからに渇いていた。私は水を一杯飲んでから、スマートフォンを開き、同窓会の幹事の友人に短いメッセージを送った。
「この前は誘ってくれてありがとう。実はあの日、少し疲れてたんだ。次はお茶くらいがうれしいな」
送信ボタンを押す指が、少しだけ震えた。
返事を待つあいだ、ふと机の上を見て、息をのんだ。
小さな、人の形に切り抜かれた白い紙が、一枚、置かれていた。
昨夜、そんなものを置いた覚えはない。
紙には、まだ何も書かれていなかった。
今度は、私が書く番だ。
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