
海沿いの県道を、白いミニバンで走っていた。
右手に黒い海が広がり、街灯がひとつずつ後ろへ流れていく。運転は嫌いじゃない。いつもの道だ。
信号で止まったとき、ふと自分の息が甘いことに気づいた。日本酒の匂いだった。
いつ飲んだのか思い出せない。けれど口の中には確かに、冷やの辛口が残っている。
前のほうで赤い誘導灯がゆっくりと振られていた。検問だ。ハンドルを握る手のひらに、じっとりと汗がにじむ。引き返す道はない。窓を下ろせと、制服の影が近づいてくる。
そこで目が覚めた。
午前四時半。仕事から帰って、まだ一時間しか眠っていなかった。
◇
僕、矢野は四十一歳で、運転代行の仕事をして三年になる。
その前は、駅前で小さな居酒屋をやっていた。客は入っていたが、十年続けたところで腰を悪くして店をたたんだ。それから昼の仕事を探すうちに、夜のほうが向いていると気づいて今にいたる。
代行は二人一組で動く。僕がお客さんの車を運転し、相棒が会社の車でうしろをついてくる。相棒のハルは二十六歳で、前は保育士をしていたそうだ。運転はていねいで、そして口が悪い。
「矢野さん、また寝不足の顔してる」
「夢見が悪かったんだよ」
「どうせ、お客さんの車ぶつける夢でしょ」
ハルは笑って、会社の軽自動車のエンジンをかけた。
ぶつける夢なら、まだましだった。
◇

金曜の夜になると、決まって同じスナックから電話がかかってくる。
店の名前は「灯」。お客さんは杉さんという七十代の男性で、車はいつも白いミニバンだった。三十分ほどの帰り道、杉さんは助手席で機嫌よくしゃべる。孫の野球のこと、若いころの漁船のこと、店のママの歌が下手なこと。
その夜もそうだった。海沿いの県道に出たところで、杉さんは窓の外を見ながら言った。
「この道な、昔は飲んでも自分で運転して帰ってたんだ。毎晩だよ。誰もうるさく言わなかった」
僕は前を見たまま、あいまいにうなずいた。
「運がよかっただけだな」
杉さんはそう言って、からからと笑った。
僕は笑えなかった。居酒屋をやっていたころ、閉店後に「近いから大丈夫」と車のキーを回した常連の背中を、何度か見送ったことがある。あのとき自分が何と言ったのか、思い出せない。言ったのかどうかすら。
あの白いミニバンの夢を見るようになったのは、その夜からだ。
◇
夢は少しずつ細かくなっていった。
県道の街灯の数。カーラジオから流れる演歌。そしてある夜から、助手席に杉さんが座るようになった。
「大丈夫だ。いつもの道だ」
夢の中の杉さんは、そう言って笑う。僕の息は日本酒の匂いがする。前方で、赤い誘導灯が揺れている。
目が覚めるたび、僕は台所で水を一杯飲み、会社から持ち帰っているアルコールチェッカーに息を吹きこんだ。表示はいつもゼロだった。当たり前だ。僕はもう、ほとんどお酒を飲まない。
「休みの日まで測ってるの?」
ある日それを知ったハルは、心底あきれた顔をした。
「念のためだよ」
「矢野さん、それ念のためって顔じゃないよ」
その金曜、杉さんからの電話はなかった。
次の金曜も、その次の金曜もかからなかった。
三週目の土曜の昼、僕は「灯」の前まで行ってみた。昼間のスナックはシャッターが下りていて、色あせた看板だけがぶら下がっていた。貼り紙もない。僕はしばらくその前に立って、それから何も聞かずに帰った。
その夜の夢で、助手席は空っぽだった。
◇
四週目の金曜。午後十時過ぎに会社の電話が鳴った。
「灯から、杉さんです」
事務の女性の声に、思わず腰が浮いた。
店の前に着くと、杉さんは入り口の脇に立っていた。少しやせたように見えたが、顔色は悪くない。ただ、いつもの白いミニバンが見当たらない。
杉さんの横には、真新しい自転車が一台とめてあった。前に大きなかごのついた、電動アシストのやつだ。
「免許、返したんだ」
杉さんは照れくさそうに頭をかいた。
「娘がうるさくてな。先月から病院やら手続きやらで、ばたばたしてた。それで今日は、こいつで来ちまったんだが」
杉さんは自転車のサドルをぽんと叩いた。
「自転車も、飲んだら乗っちゃいかんのだろう。去年からうるさくなったって、ママが言うんだよ」
後ろでハルが吹き出した。
結局、杉さんはママが呼んだタクシーで帰り、自転車だけを僕たちが届けることになった。軽自動車の後部座席を倒し、二人がかりで押しこむ。かごがつかえて、なかなか入らない。杉さんはタクシーの窓から顔を出し、「すまんな、すまんな」と言いながら笑っていた。
その夜、僕は運転しなかった。運転する車がなかったからだ。ハルの運転する軽自動車の助手席で、うしろで斜めになった自転車がかたかた鳴るのを聞きながら、海沿いの県道を走った。
杉さんの家に着くと、本人が門の前で待っていた。自転車を下ろすと、ハルが言った。
「代行で自転車運んだの、私はじめてです」
「わしもはじめてだ」
杉さんがそう言うと、ハルは声をあげて笑った。
◇
その夜も、僕は夢を見た。
海沿いの県道だった。ただし僕がまたがっているのは、前に大きなかごのついた電動アシスト自転車だった。
息が甘い。日本酒の匂いがする。
前方で赤い誘導灯が振られていた。近づくと、それを振っているのはハルだった。制服がぶかぶかで、帽子が目までずり落ちている。
「はい、息吹きかけてください」
言われるままに息を吐くと、自転車のベルが、ちりん、と鳴った。
ハルは帽子を押し上げ、真顔で言った。
「矢野さん、それ念のためって顔じゃないよ」
僕は自分の笑い声で目を覚ました。
午前五時。窓の外が薄く白んでいた。
台所で水を一杯飲み、それから少し迷って、アルコールチェッカーに息を吹きこんだ。
表示は、ゼロだった。
この夢の意味は → 【夢占い】飲酒運転の夢
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