
結論から言うと、私は海老になっていた。
いや、正確には「夢の中で」だ。それはわかっている。わかっているけれど、目の前で揺れている二本の長いひげが、どう考えても自分の顔から生えているのは、さすがに受け入れがたい。
「……え、待って。なにこれ」
声を出したつもりが、口のあたりから、ぷくぷくと小さな泡が出ただけだった。
周りは、青く透きとおった海の中。岩のすき間から差しこむ光が、ゆらゆらと揺れている。そして私の体は、半透明の、手のひらサイズの海老だった。
経緯を説明しておくと、昨日、私――柊(ひいらぎ)、二十五歳、会社員――は、上司から来月の異動を告げられた。入社以来ずっといた総務部から、まったく経験のない企画部へ。
「柊さんなら大丈夫だよ」と上司は笑ったけれど、私はぜんぜん大丈夫じゃなかった。知らない仕事、知らない人たち、知らない机。その夜、ベッドの中で不安をぐるぐる煮つめていたら、こうなった。つまり、ストレスで海老になったのである。意味がわからない。
とりあえず泳いでみようと、尻尾をぴしっと動かした、その瞬間。
ぎちっ。
体じゅうが、窮屈な音を立てた。殻が、きつい。まるで、小さすぎる服を無理やり着ているみたいだ。息をするたびに、胸のあたりが締めつけられる。
「なんで……昨日まで普通だったのに……」
「それは、おぬしが大きくなろうとしておるからよ」
低く、よく響く声がした。
振り向くと、岩陰から、とんでもなく立派な海老がのっそりと現れた。赤茶色の分厚い殻は、まるで武将の鎧兜。太い触角を、ふさりと揺らしている。伊勢海老だった。
「せ、先輩……?」
なぜか、そう呼んでしまった。
「うむ。拙者、この岩場で三十年ほど脱皮を重ねてきた者である」
キャラが濃い。夢なのにキャラが濃すぎる。
「若いの。その殻はもう、おぬしには小さい。脱ぐ時が来たのだ」
「脱ぐって……脱皮ですか?」
「左様。殻を脱がねば、海老は大きくなれぬ」
先輩は、当たり前のことのように言った。でも、私は知っている。いや、なぜか夢の中なのに知っている。
「でも、脱皮したあとって、体がふにゃふにゃになるんですよね。ほかの魚に食べられちゃうかもしれないし……怖いです」
殻はきつい。でも、この殻があるから、私は守られている。総務部の、慣れた机。慣れた仕事。慣れた人たち。窮屈だとわかっていても、手放すのは怖かった。
先輩は、しばらく黙って私を見ていた。それから、ふっと触角を揺らした。
「怖くて当然だ。脱いだばかりの体は、誰しもやわらかい。拙者とて、毎度びくびくしておる」
「え、先輩でも?」
「三十年経ってもだ。だからこそ、脱皮のあとは、無理に泳ぎ回らぬ。仲間の陰に身を寄せて、新しい殻が固まるまで、しばし休むのよ」
先輩は、自分の大きな体の陰を、触角でとんとんと示した。
「やわらかい間は、頼ればよい。それは恥ではない。次に大きな殻をまとうための、大事な支度である」
……ずるい。そんなこと言われたら、ちょっと泣きそうになる。
「わかりました。脱ぎます」
私は、ぎゅっと体を丸めた。背中の殻に、ぴしりと裂け目が入る。思ったより痛くない。ゆっくりと、古い殻から体を引き抜いていく。
するり。
抜け出した体は、驚くほど軽かった。そして、確かに、ひと回り大きかった。
ただし、ふにゃふにゃだった。
「せ、先輩、これ、本当に大丈夫なんですか」
「案ずるな。拙者の陰におれ」
私は、先輩の鎧みたいな殻の陰に、そっと身を寄せた。分厚い殻越しに、ゆらゆらと揺れる光が見える。足もとには、さっきまで私だった抜け殻が、透きとおって沈んでいた。
「ところで先輩、その立派な殻、正月飾りとかにされちゃいそうですね」
「……縁起物とは、そういうものだ」
先輩は、少しだけ遠い目をした。
――目が覚めると、スマホのアラームが鳴っていた。
もちろん、ひげは生えていない。人間だった。よかった。
でも、胸の締めつけられるような感覚は、少しだけ軽くなっていた。
その日、私は、企画部で長く働いている先輩社員の村瀬さんに、思いきって声をかけた。
「来月から企画部でお世話になります。最初は、たぶん何もわからなくて……いろいろ、頼ってもいいですか」
村瀬さんは、一瞬きょとんとして、それから笑った。
「もちろん。最初はみんな、ふにゃふにゃだからね」
「……ふにゃふにゃ」
思わず吹き出しそうになった。村瀬さんの席のパーティションには、なぜか、赤い伊勢海老の形をした小さな置物が飾られていた。
「それ、なんですか?」
「ああ、これ?出世祈願。伊勢海老って、鎧兜みたいで縁起がいいんだって」
――世界、狭くない?
こうして私の、殻を脱いだばかりの、少しやわらかい新生活が始まった。
新しい殻が固まるまでは、もう少しだけ、誰かの陰を借りるつもりだ。
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