
最初の夜、その犬はとても小さかった。
アパートの廊下の突き当たり、電気の消えた暗がりに、白い子犬がちょこんと座っていた。尻尾をぱたぱたと振って、私を見上げている。
しゃがんで手を差し出すと、子犬は私の指先をぺろりと舐めて、それから、はむ、と甘噛みした。
痛くはなかった。くすぐったいくらいだった。濡れた小さな歯の感触に、私は思わず笑っていた。
次の夜も、その犬はいた。
少しだけ、大きくなっていた。甘噛みも、少しだけ強くなっていた。指の腹に、うっすらと歯の跡が残った。痛くはない。ただ、跡が消えるまでに、昨日より時間がかかった。
三日目の夜。犬は、柴犬くらいの大きさになっていた。
その日、私は職場で、先輩に頼まれた仕事を三つ引き受けていた。どれも本当は、先輩の担当だった。「大丈夫です、やっておきます」と笑ったとき、奥歯のあたりがぎしりと鳴った気がした。
犬は私の手首をくわえた。はむ、と、昨日よりずっと深く。
やはり、痛くはなかった。
痛くないことが、だんだん怖くなってきた。
朝、歯を磨きながら、ふと「飼い犬に手を噛まれる」という言葉を思い出した。信じていた相手に裏切られる、という意味のことわざだ。けれど私は、犬なんて飼っていない。誰かに裏切られた覚えもない。むしろ、誰のことも裏切らないように、誰のことも困らせないように、毎日気をつけて暮らしている。
それなのに、洗面台の鏡に映る自分の顔が、なぜか知らない人のように見えた。口角だけが、きれいに上がっている。
四日目の夜、犬の首輪に、小さな名札がついているのに気づいた。
暗がりの中で目を凝らす。そこには、私の名前が書いてあった。
「あなた、誰の犬なの」
問いかけると、犬は首をかしげて、それから、私の声で答えた。
「あなたの犬だよ」
心臓が、どくんと跳ねた。
「あなたが噛まないから、わたしが噛んでるの」
犬は、私の腕に歯を立てた。今度は、はっきりと跡が残った。赤く、弓なりに並んだ歯の跡。
「言い返すかわりに、ずっと歯を食いしばってたでしょう。飲み込んだ言葉のぶんだけ、わたしは大きくなるの」
廊下の壁に、古い姿見が立てかけてあった。夢の中の私は、ふらふらとその前に立った。
鏡の中の私が、いつものように、にっこりと笑う。
その口元に並んだ歯の形が、腕に残った跡と、ぴったり同じだった。
悲鳴をあげて目を覚ますと、顎がひどく痛んだ。こめかみまで、じんと重い。一晩じゅう、強く歯を食いしばっていたのだ。
腕を見る。もちろん、跡などどこにもない。
けれど、その日の午後、先輩がまた書類の束を私の机に置いたとき、私は、腕の内側がちりちりと熱くなるのを感じた。
「これもお願いできる? 急ぎで」
いつもなら、笑って「大丈夫です」と言うところだった。
私は、ゆっくりと息を吸った。
「すみません。今日は、自分の分で手いっぱいです」
声が震えた。先輩は一瞬きょとんとして、それから「そっか、ごめんね」と、書類を持って自分の席に戻っていった。
責められもしなかった。嫌われた様子もなかった。
拍子抜けするほど、あっけなかった。
その夜、廊下の暗がりにいた犬は、最初の夜と同じ、小さな白い子犬に戻っていた。子犬は私の足元で丸くなり、指先を、はむ、と一度だけ甘噛みした。
今度の甘噛みは、ただ温かかった。
それから、あの大きな犬は現れていない。
ただ、ときどき、夜中にかりかりと、玄関のドアを引っかく音がする。
私がまた、何かを飲み込んだ日に限って。
こちらもオススメ
噛まれる夢が持つ本来の意味についてはこちらの夢占い記事で、精神分析の口唇期や動物の甘噛み、吸血鬼伝説との関わりについてはこちらの夢ことほぎ記事で、それぞれ詳しく解説しています。


コメント