【夢物語】三つの名前を持つ猫|かわいがる夢

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【夢物語】三つの名前を持つ猫|かわいがる夢

夢の中で、私は灰色の猫をなでていた。

指を沈めると、やわらかな毛並みの奥から、温かな体温が伝わってくる。猫は、喉をごろごろと鳴らして、私の手のひらに頭をこすりつけた。

ふいに、猫が立ち上がった。そして、長い廊下を、しっぽを揺らしながら歩いていく。廊下の両側には、いくつものドアが並んでいた。猫は、そのうちの一つの前で振り返り、するりと中へ消えた。

ドアの表札は、にじんでいて読めなかった。

――目が覚めると、窓の外で、にゃあ、と声がした。

この町に引っ越してきて、半年になる。在宅で翻訳の仕事をしている私は、一日じゅう、誰とも話さない日も珍しくなかった。前の街には友人もいたけれど、ここには、知り合いと呼べる人は一人もいない。

そんな私のアパートの一階の窓辺に、ひと月ほど前から、一匹の猫がやってくるようになった。

雨雲みたいな灰色の毛並みをした、少しぽっちゃりした猫だ。私は、勝手に「くもちゃん」と呼んでいた。窓を開けると、くもちゃんは、当然のような顔で部屋に上がりこみ、私のひざの上で丸くなる。煮干しを少しあげて、背中をなでる。それが、いつの間にか、一日のうちで、いちばん楽しみな時間になっていた。

ところが、最近、気になることがあった。

くもちゃんの首に、日によって違うものがついているのだ。ある日は、赤いリボン。別の日は、小さな金色の鈴。誰かが、くもちゃんに何かを結んでいる。

そして、ある朝。くもちゃんの首輪に、小さく折りたたんだ紙が結びつけてあった。

開くと、鉛筆の、まだ幼い字で、こう書いてあった。

――このねこの、なまえはなんですか。

私は、しばらくその紙を見つめていた。それから、ペンを取って、紙の裏に書いた。

――私は、くもちゃんと呼んでいます。

紙をたたんで、首輪に結び直し、くもちゃんを窓から送り出した。

翌日、くもちゃんの首輪には、また紙がついていた。幼い字の下に、新しい行が増えている。

――ぼくは、シロってよんでます。(はいいろだけど)

その下に、もう一つ。今度は、筆で書いたような、きれいに整った大人の字だった。

――手前どもでは、おもち、と呼んでおります。

思わず、声を出して笑ってしまった。くもちゃんは、シロで、おもちだったのだ。この猫は、少なくとも三つの家で、別々の名前で、かわいがられていた。

それから、私は、ちょっとした探偵のような気分で、くもちゃんの行き先を探ることにした。

午後、窓から出ていくくもちゃんのあとを、そっとつけてみる。くもちゃんは、塀の上を歩き、植えこみをくぐり、まず、通りの向かいの古い一軒家の縁側に上がった。

縁側には、白髪の老人が座っていた。老人は、くもちゃんを見ると、目を細めて、「おお、おもち」と言った。膝にのせて、ゆっくりと背中をなでる。その手つきは、まるで、壊れものを扱うようにやさしかった。

夕方になると、くもちゃんは、今度は私のアパートの二階へ上がっていった。二〇一号室の前で、小学生くらいの男の子が、ランドセルを背負ったまま、ドアの前に座っていた。

「シロ!」

男の子は、くもちゃんを抱きしめて、顔をうずめた。両親の帰りが遅く、鍵を忘れた日は、ここで待っているらしい。

その週末、私は、二枚の手紙を書いた。一枚は、通りの向かいの家の郵便受けに。もう一枚は、二〇一号室のドアのすき間に。

――日曜日の午後三時、角の公園のベンチで、お話ししませんか。灰色の猫の、くもちゃんより。

日曜日。ベンチには、あの老人と、男の子と、男の子の母親が座っていた。そして、なぜか、くもちゃんまで、みんなの足もとで寝転んでいた。

「この子、以前この町に住んでいた方の飼い猫だったようです」

老人が、ゆっくりと話してくれた。飼い主の女性が施設に移ることになり、猫だけが、この町に残されたのだという。

「わしは、去年、家内を亡くしましてな。一人の家に、この子が来てくれるようになって、ずいぶん救われました」

「うちの子も、この猫がいるから、一人で待つのが平気になったみたいで」

男の子の母親が、すまなそうに笑った。男の子は、くもちゃんのお腹に、そっと顔をくっつけている。

私も、話した。この町に知り合いがいないこと。くもちゃんが来るのが、毎日の楽しみだったこと。

話し終えたとき、私は気づいた。くもちゃんは、三つの家の、三つの寂しさのあいだを、毎日、行ったり来たりしてくれていたのだ。私たちは、くもちゃんをかわいがっているつもりで、本当は、くもちゃんに、かわいがられていたのかもしれない。

その日、私たちは、一冊の小さなノートを用意した。くもちゃんにあげたごはんや、気づいたことを書きこんで、首輪の小さな袋に入れて、回していく。病院に連れていくときの費用は、三つの家で分け合うことにした。

ノートの最初のページに、男の子が、大きな字で書いた。

――このねこの名まえ。くもちゃん、シロ、おもち。ぜんぶ。

その夜、また、あの廊下の夢を見た。

灰色の猫が、しっぽを揺らしながら歩いていく。並んだドアは、今度は、どれも少しずつ開いていた。一つの部屋からは、老人の笑い声が。一つの部屋からは、男の子のはしゃぐ声が聞こえてくる。

猫は、最後に、私の部屋のドアの前で振り返った。表札には、ちゃんと、私の名前が書いてあった。

私は、ドアを大きく開けて、猫を迎え入れた。

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