【夢物語】二〇七六年の桃|缶詰の夢

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【夢物語】二〇七六年の桃|缶詰の夢

夢の中で、私は、銀色の缶を両手で握りしめていた。

缶は、手のひらにずっしりと重い。ふたのプルタブに指をかけて、力をこめる。けれど、どれだけ引っぱっても、ふたはびくともしなかった。缶の中で、何かが、とぷん、と揺れる音がした。

開けて、と誰かが言った気がした。

――目が覚めると、部屋の壁のスクリーンに、朝の気温が表示されていた。十月なのに、三十一度。二〇七六年の秋は、今年も暑い。

その日の午後、私は、曾祖母の家の解体に立ち会っていた。

曾祖母のさくらは、百二歳まで生きて、先月亡くなった。古い木造の家は、取り壊されて、新しい共同住宅になる。最後に家の中を見て回っていたとき、作業用のロボットが、床下から一つの箱を見つけた。

ステンレスの箱には、手書きのラベルが貼られていた。かすれた字で、こう読めた。

――二〇二六年十月十日 五十年後の、わたしの家族へ

箱を開けると、中には、一通の封筒と、一つの缶詰が入っていた。

缶詰。

私は、実物を見るのは初めてだった。いまでは、食べ物のほとんどは、栄養を計算された合成食で、果物なんて、誕生日にしか口にできない贅沢品だ。

缶のラベルは色あせていたけれど、描かれた絵は、かろうじて分かった。丸くて、ほんのり赤い果物。

「桃、だって」

一緒に来ていた母が、ラベルの字を読んだ。

その夜、家族で、曾祖母の手紙を開いた。紙の手紙も、いまでは珍しい。少し右上がりの、几帳面な字が並んでいた。

――五十年後のわたしの家族へ。

――今日は十月十日、缶詰の日です。この缶は、わたしが風邪をひいたとき、いつも母が開けてくれた、桃の缶詰です。五十年後の世界で、果物がどうなっているのか、わたしには分かりません。暑くなりすぎて、桃の木が育たなくなっているかもしれない。だから、一つだけ、取っておくことにしました。

――この缶を開けるのは、あなたたちが、本当に誰かを励ましたいと思ったときにしてください。

家族は、しばらく黙りこんだ。

それから、缶詰は、リビングの棚の上に置かれることになった。けれど、誰も開けようとはしなかった。五十年も前の、たった一つの缶だ。開けてしまったら、もう二度と戻らない。

そのたびに、私は、あの夢を見た。開かない缶を、必死に引っぱる夢を。

私は、学校の資料室で、五十年前の暮らしを調べてみた。

記録の中の二〇二六年は、まだ、桃の木があちこちの畑で育っていた時代だった。夏になると、店先に桃が山のように積まれ、人々は、それを特別なものとも思わずに、かじっていたらしい。台風や地震に備えて、どの家にも、缶詰がいくつも置いてあったという。

資料室の立体映像で、桃の木を見た。枝いっぱいに、薄紅色の実がぶら下がっている。手を伸ばしても、指は、光の実をすり抜けるだけだった。

曾祖母は、この木を、本物の目で見ていたのだ。そう思うと、棚の上の缶詰が、急に、遠い時代から届いた手紙のように思えた。

十一月になって、弟の湊が、高熱を出した。

この時代にも、風邪は消えていない。薬を飲んで、ベッドで寝ていれば、数日で治る。けれど、湊は、熱にうかされながら、受験がもう目の前なのに、と泣いていた。食事も、ほとんど喉を通らなかった。

私は、棚の上の缶詰を見上げた。

――あなたたちが、本当に誰かを励ましたいと思ったとき。

その夜、私は、缶詰を手にとった。家族は、何も言わなかった。母が、引き出しの奥から、古い缶切りを探してきてくれた。曾祖母の家から持ってきた道具の一つだった。

缶切りの刃を、ふたの縁にあてる。ぎこ、ぎこ、と、ゆっくり回していく。

ふたが、ぱかりと開いた。

甘い香りが、部屋いっぱいに広がった。とろりとしたシロップの中に、白くてやわらかそうな桃が、二つ、並んで沈んでいた。

五十年たっても、桃は、ちゃんと桃の形をしていた。

私は、桃を小さく切って、湊のベッドへ持っていった。湊は、熱で赤い顔をしながら、ひと口食べた。そして、目をまるくした。

「……なにこれ。甘い」

湊は、もうひと口、もうひと口と、ゆっくり食べた。それから、少しだけ笑った。

「ひいばあちゃんの味、かな」

私は、残ったシロップを、少しだけなめてみた。合成食にはない、やさしくて、懐かしいような甘さだった。会ったこともない、百年前の誰かの台所の匂いが、した気がした。

湊の熱は、三日後に下がった。受験にも、間に合った。

空になった缶は、きれいに洗って、棚の上に戻した。そして、私は、その中に、一枚の紙を入れた。

――二〇七六年十一月。五十年後の、わたしの家族へ。

何を書こうか、まだ決めていない。でも、この缶に、何かを取っておきたいと思った。未来の誰かが、本当に励ましを必要とするときのために。

その夜、また、あの夢を見た。

銀色の缶を、両手で握りしめている。プルタブに指をかけると、ふたは、今度は、驚くほど軽く開いた。

缶の中から、やわらかな光があふれ出した。その光の向こうで、若いころの曾祖母が、桃の缶詰を手に、こちらに向かって、ほほえんでいた。

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