
その夢の中では、いつも雨が降っていた。
会社のビルのエントランス。ガラスの向こうは、白く煙るような土砂降りだった。傘を持っていない私は、自動ドアの前で立ち尽くしている。
「これ、使ってください」
振り向くと、隣の部署の相沢さんが、紺色の傘を差し出していた。
夢の中の出来事なのに、私はその場面を、はっきりと覚えていた。三か月前の、本当にあった出来事だったからだ。
あの日、相沢さんは「僕、もう一本あるので」と笑って、その傘を貸してくれた。私は「ありがとうございます、明日返します」と言った。
それから、三か月。紺色の傘は、今も私の部屋の玄関に立てかけてある。
返そうと思わなかったわけではない。むしろ、毎朝のように思っていた。でも、隣の部署まで傘を持っていくのが、なぜか気恥ずかしかった。廊下ですれ違うたびに、相沢さんは会釈をしてくれる。そのたびに「傘」と言いかけて、言葉が喉につかえた。日が経つほど、切り出しにくくなっていった。
借りたままの傘は、小さな借金のように、心の片隅で少しずつ重さを増していった。早く返さなければ、という気持ち。そして、返してしまったら、この細いつながりまで終わってしまうのではないか、という気持ち。傘立ての紺色が目に入るたびに、その二つが胸の中で押し合っていた。
夢の中の雨は、やむ気配がなかった。私は紺色の傘を差して、雨の街を歩いていた。
すると、傘の内側に、小さな文字が浮かび上がってきた。
「いつ返してくれるの?」
驚いて傘を傾けると、雨粒が文字の上を流れて、また別の文字が現れる。
「返してくれたら、また話せるのに」
心臓が、どくんと跳ねた。
そのとき、雨の向こうから、誰かが歩いてきた。相沢さんだった。傘も差さずに、ずぶ濡れになって、私の前で立ち止まった。
「あ、あの、傘……」
慌てて傘を差し出そうとすると、相沢さんは、首を横に振った。
「いいんです。その傘、返してもらわなくても」
「え……」
「本当はね、あの日、傘は一本しか持ってなかったんです」
雨の音が、急に遠くなった。
「僕、あの日は濡れて帰りました。どうしても、あなたに話しかけるきっかけがほしくて」
――目が覚めると、窓の外で、雨が降っていた。
私は、しばらく布団の中で、天井を見つめていた。夢の中の相沢さんの言葉が、胸の中でぐるぐると回っていた。
夢だ。ただの夢だ。
でも、玄関の紺色の傘は、現実にそこにあった。
その日、私は、傘と、駅前の洋菓子店で買った小さな焼き菓子の箱を持って、会社へ向かった。昼休み、隣の部署の入り口で、深呼吸を一つ。
「相沢さん」
振り向いた相沢さんは、私が手にしている紺色の傘を見て、目を丸くした。
「三か月も借りっぱなしで、すみませんでした。本当に助かりました。これ、お礼です」
焼き菓子の箱を差し出すと、相沢さんは、少し照れたように笑った。
「わざわざ、ありがとうございます。……実は、返ってこないかなと思ってました」
「ご、ごめんなさい」
「いえ、そうじゃなくて」
相沢さんは、頭をかいた。
「返しに来てくれたら、ちゃんと話せるかなって、ちょっと期待してたんです」
心臓が、夢の中と同じように跳ねた。
「あの日、傘、もう一本あったんですか?」
思わず聞くと、相沢さんは、目をそらして、小さな声で言った。
「……実は、一本しかありませんでした」
雨上がりの廊下の窓に、薄い日差しが差し込んでいた。
「よかったら、今度、お茶でもどうですか。傘のお礼の、お礼に」
相沢さんの言葉に、私は、笑ってうなずいた。
借りたものを返したら、そこから、新しい何かが始まることもある。
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