【夢物語】返しそびれた傘|借りる夢

この記事は約3分で読めます。
【夢物語】返しそびれた傘|借りる夢

その夢の中では、いつも雨が降っていた。

会社のビルのエントランス。ガラスの向こうは、白く煙るような土砂降りだった。傘を持っていない私は、自動ドアの前で立ち尽くしている。

「これ、使ってください」

振り向くと、隣の部署の相沢さんが、紺色の傘を差し出していた。

夢の中の出来事なのに、私はその場面を、はっきりと覚えていた。三か月前の、本当にあった出来事だったからだ。

あの日、相沢さんは「僕、もう一本あるので」と笑って、その傘を貸してくれた。私は「ありがとうございます、明日返します」と言った。

それから、三か月。紺色の傘は、今も私の部屋の玄関に立てかけてある。

返そうと思わなかったわけではない。むしろ、毎朝のように思っていた。でも、隣の部署まで傘を持っていくのが、なぜか気恥ずかしかった。廊下ですれ違うたびに、相沢さんは会釈をしてくれる。そのたびに「傘」と言いかけて、言葉が喉につかえた。日が経つほど、切り出しにくくなっていった。

借りたままの傘は、小さな借金のように、心の片隅で少しずつ重さを増していった。早く返さなければ、という気持ち。そして、返してしまったら、この細いつながりまで終わってしまうのではないか、という気持ち。傘立ての紺色が目に入るたびに、その二つが胸の中で押し合っていた。

夢の中の雨は、やむ気配がなかった。私は紺色の傘を差して、雨の街を歩いていた。

すると、傘の内側に、小さな文字が浮かび上がってきた。

「いつ返してくれるの?」

驚いて傘を傾けると、雨粒が文字の上を流れて、また別の文字が現れる。

「返してくれたら、また話せるのに」

心臓が、どくんと跳ねた。

そのとき、雨の向こうから、誰かが歩いてきた。相沢さんだった。傘も差さずに、ずぶ濡れになって、私の前で立ち止まった。

「あ、あの、傘……」

慌てて傘を差し出そうとすると、相沢さんは、首を横に振った。

「いいんです。その傘、返してもらわなくても」

「え……」

「本当はね、あの日、傘は一本しか持ってなかったんです」

雨の音が、急に遠くなった。

「僕、あの日は濡れて帰りました。どうしても、あなたに話しかけるきっかけがほしくて」

――目が覚めると、窓の外で、雨が降っていた。

私は、しばらく布団の中で、天井を見つめていた。夢の中の相沢さんの言葉が、胸の中でぐるぐると回っていた。

夢だ。ただの夢だ。

でも、玄関の紺色の傘は、現実にそこにあった。

その日、私は、傘と、駅前の洋菓子店で買った小さな焼き菓子の箱を持って、会社へ向かった。昼休み、隣の部署の入り口で、深呼吸を一つ。

「相沢さん」

振り向いた相沢さんは、私が手にしている紺色の傘を見て、目を丸くした。

「三か月も借りっぱなしで、すみませんでした。本当に助かりました。これ、お礼です」

焼き菓子の箱を差し出すと、相沢さんは、少し照れたように笑った。

「わざわざ、ありがとうございます。……実は、返ってこないかなと思ってました」

「ご、ごめんなさい」

「いえ、そうじゃなくて」

相沢さんは、頭をかいた。

「返しに来てくれたら、ちゃんと話せるかなって、ちょっと期待してたんです」

心臓が、夢の中と同じように跳ねた。

「あの日、傘、もう一本あったんですか?」

思わず聞くと、相沢さんは、目をそらして、小さな声で言った。

「……実は、一本しかありませんでした」

雨上がりの廊下の窓に、薄い日差しが差し込んでいた。

「よかったら、今度、お茶でもどうですか。傘のお礼の、お礼に」

相沢さんの言葉に、私は、笑ってうなずいた。

借りたものを返したら、そこから、新しい何かが始まることもある。

こちらもオススメ

借りる夢が持つ本来の意味についてはこちらの夢占い記事で、ベンジャミン・フランクリン効果や返報性、モースの『贈与論』、江戸の大晦日の掛け取りについてはこちらの夢ことほぎ記事で、それぞれ詳しく解説しています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました