【夢物語】まっさらな看板|看板の夢

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【夢物語】まっさらな看板|看板の夢

夢の中で、おれは、真っ白な大きな看板の前に立っていた。

手には、使い慣れた平筆。ペンキの缶も、足もとにちゃんとそろっている。それなのに、何を書けばいいのか、さっぱり分からなかった。筆を持ち上げては、また下ろす。看板は、いつまでたっても、まっさらなままだった。

通りを行く人たちが、看板の前で、首をかしげて通り過ぎていく。

――目が覚めると、仕事場の二階の、薄い布団の上だった。窓の外で、豆腐屋のラッパが鳴っていた。

昭和三十八年の春。おれ、健吉は十九歳で、下町の看板屋「源看板」に住みこみで弟子入りして、三年目になる。

親方の源さんは、六十を過ぎた、無口で気難しい職人だ。商店街の看板のほとんどは、源さんの手によるものだった。魚屋の威勢のいい太文字も、床屋のくるくるの看板も、映画館の大きな絵看板も。

おれは、まだ、下地塗りと文字の下書きしかさせてもらえなかった。

その日、商店街の外れの和菓子屋「松月堂」の娘さんが、仕事場にやってきた。

「看板を、新しくしたいんです」

千代さんという、おれと同い年くらいの娘さんだった。松月堂は、千代さんのおじいさんが始めた古い店だが、駅前に新しい洋菓子屋ができてから、客足が遠のいているのだという。

「おじいちゃんの大福は、どこにも負けないんです。でも、看板が古くて、通りの人に気づいてもらえなくて」

源さんは、しばらく黙っていた。それから、思いもよらないことを言った。

「健吉、おまえがやれ」

「お、おれがですか」

「三年も下塗りばかりしてりゃ、腕はついてる。あとは、何を書くかだ」

その晩から、おれは、何枚も下書きを描いた。目立つように、派手な色を使ってみた。駅前の洋菓子屋に負けないように、横文字を入れてみた。けれど、どれも、源さんには首を横に振られた。

「看板ってのはな、店の顔だ。でもな、顔ってのは、中身が出るもんだ。上っ面だけ飾っても、すぐに見抜かれる」

「じゃあ、どうすれば」

「店に行って、中身を見てこい」

次の日から、おれは、毎朝、松月堂に通った。

まだ暗いうちから、千代さんのおじいさんが、店の奥で小豆を炊いていた。大きな鍋をかき混ぜる手は、しわだらけで、けれど、少しも迷いがなかった。蒸しあがった餅を、千代さんが、一つずつ、ていねいに丸めていく。

「おじいちゃん、六十年、毎朝、こうしてるの」

千代さんが、湯気の向こうで笑った。

一週間通って、おれは、ようやく分かった気がした。この店の顔は、派手な色でも、横文字でもない。六十年変わらない、おじいさんの手と、千代さんの笑顔だ。

おれは、まっさらな板に向かった。

白い地に、墨のように深い藍色で、太く、丸みのある文字を書いた。客が、店いっぱいに入るようにと、文字と文字のすき間を詰めて、どっしりと。

――松月堂 六十年 毎朝炊きたて

そして、文字の横に、湯気の立つ大福を、一つだけ描いた。

源さんは、出来あがった看板を、腕組みをしたまま、長いこと眺めていた。それから、一言だけ言った。

「中身が、出てる」

看板を仕上げた夜、雨が降っていた。源さんが、珍しく、仕事場の奥の物置におれを呼んだ。

物置の隅に、色あせた一枚の看板が立てかけてあった。「みどり湯」。かすれた文字の横に、湯気の立つ湯船の絵が描かれている。

「おれが、初めて一人で書いた看板だ。四十年も前になる」

みどり湯は、戦争で焼けてしまったのだという。焼け跡から、この看板だけが見つかった。湯屋の主人は、それを大事に持ち続け、亡くなるとき、源さんに返してくれと言い残したそうだ。

「店がなくなっても、看板は、人の心に残る。だから、いい加減なものは書けねえんだ」

源さんは、色あせた湯気の絵を、指でそっとなぞった。その指先は、松月堂のおじいさんの手と、どこか似ていた。

看板が掲げられた朝、千代さんは、店の前で、しばらく看板を見上げていた。

「……おじいちゃんの手が、見える気がする」

それから、少しずつ、松月堂に客が戻ってきた。看板の「毎朝炊きたて」の文字を見て、通りがかりの人が、ふらりと立ち寄っていく。いつの間にか、店の前に、小さな行列ができる朝も増えた。

ある日、千代さんが、仕事場に大福を届けにきてくれた。

「健吉さんの看板、評判いいんですよ。看板娘より目立つって、おじいちゃんに笑われちゃった」

「……看板娘は、千代さんのほうだ」

思わず口にしてから、顔が熱くなった。千代さんも、うつむいて、耳まで赤くなっていた。仕事場の奥で、源さんが、わざとらしく咳ばらいをした。

千代さんが帰ったあと、源さんは、おれの肩をぽんと叩いて、「次の注文、おまえにまかせる」とだけ言った。三年間で、初めて聞く言葉だった。

その夜、また、あの夢を見た。

真っ白な大きな看板の前に、おれは立っていた。けれど、今度は、筆が迷わなかった。

すらすらと動いた筆が、看板に書いた文字は、おれ自身の名前だった。

――看板職人 健吉

まだ、まっさらな看板の、真ん中に。いつか、この名前に、中身が追いつくように。

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