
わたしは幽霊だ。
生まれたのは十七年前の三月の夜。高校を卒業した彼女が、使いかけのスケッチブックを押し入れの奥にしまった、その夜だ。絵の具のしみがついたジャージと一緒に箱へ入れられ、ガムテープで封をされたとき、わたしはそこにいた。だから、わたしには足がない。どこへも歩いていけなかったものは、たいてい足をなくす。
押し入れの奥には先輩がいた。十年前に壊れて捨てられた、扇風機の幽霊だ。首を振りながら「新入りか」と言った。
彼女は三十五歳になった。市役所の窓口で一日じゅう頭を下げて、夜はスマホを見ながら眠る。ある晩、わたしは思いきって、彼女の夢に出てみることにした。
白い着物を借りて、枕元に立った。彼女は目を見ひらき、悲鳴をあげた。その声に驚いて、わたしは押し入れまで吹きとばされた。
「なってへんな」と扇風機の先輩は言った。「幽霊にはな、作法がある」
先輩によると、まず柳の木が要る。手は胸の前でだらりと下げる。そして決めぜりふは「うらめしや」だ。
その夜から、押し入れの奥で練習が始まった。
「うらめしやあ」
「語尾が明るい。宅配便ちゃうねんから」
「うらめしや……」
「今度は暗すぎる。聞こえへん」
「うらめしや!」
「元気よすぎや。八百屋か」
先輩は首を左右に振りながら、ひとつずつ直していった。ときどき「強」に切りかわって、わたしの髪をめちゃくちゃにした。三日目の晩、わたしはようやく合格をもらった。
二度目の夢では、ちゃんと柳の下に立った。手を胸の前で下げ、腹の底から言った。
「うらめしや」
彼女は前の晩より大きな悲鳴をあげて、目を覚ました。次の日は仕事を休み、実家の母親に電話をかけていた。最近、夜がこわいの。そう言う声が、押し入れの中まで聞こえた。
わたしは箱の隅で、しばらく動けなかった。怖がらせたかったわけではない。ただ、会いたかっただけなのだ。
思えば、彼女がわたしを忘れたことは一度もなかった。窓口の電話を待つあいだ、メモ用紙のすみに小さな猫を描いては、すぐに丸めて捨てている。日曜に押し入れを片づけたときも、箱の前で手を止めて、ガムテープを指でなぞった。けれど、ふたは開けなかった。開けたら何かが崩れてしまう。そんな顔をしていた。
先輩は、めずらしく首を振るのを止めていた。
「あのな」と先輩は言った。「人がいちばん怖がるのはな、知らん顔して出てくるもんや。おまえ、あの子の知らん格好で出とるやろ」
わたしは自分の白い着物を見下ろした。たしかに、彼女はこんな着物を一度も着たことがない。
「知っとる格好で行ったらええねん。着物は返してき」
三度目の夜、わたしは白い着物を脱いだ。かわりに、箱の中のジャージを着た。左の膝に群青の絵の具、袖口に黄土色のしみがついている。スケッチブックを小脇に抱えて、柳ではなく、高校の美術室を夢の舞台に選んだ。窓から午後の光が差し、石膏像が並び、テレピン油のにおいがする部屋だ。
イーゼルの前に座っていると、彼女がやってきた。今度は悲鳴をあげなかった。しばらくわたしを見つめてから、少し首をかしげた。
「それ、わたしのジャージじゃない?」
わたしはうなずいた。うらめしや、は言わなかった。練習の成果を見せられないのは少し惜しかったけれど、言う理由がもう見つからなかった。
「どうして、そんなところにいたの」と彼女は聞いた。
わたしは押し入れの話をした。ガムテープの話と、扇風機の先輩の話もした。彼女は途中で吹きだして、それから少し黙った。
「捨てたつもりはなかったんだよ。しまっておいただけ」
知っている、とわたしは言った。すっかり忘れられたものは、幽霊にもなれないから。
わたしたちは並んで、窓の外の木を描いた。わたしは柳を描こうとして、ほうきみたいな絵になった。彼女は声をあげて笑い、鉛筆を持ちかえて、その横に本物みたいな柳を描きたした。手がちゃんと覚えている。十七年たっても。

目が覚めた彼女は、その日の帰りに文房具店へ寄った。いちばん安いスケッチブックと、六色入りの色鉛筆を買った。夜、台所のテーブルで、マグカップを一つだけ描いた。下手だね、と自分で言って、少し笑った。次の日、窓口の電話を待つあいだにメモ用紙のすみへ描いた猫は、丸められずに手帳のあいだへはさまれた。
その晩、押し入れの奥で、わたしは自分の裾のあたりがむずむずするのに気づいた。見下ろすと、つま先がのぞいていた。次の晩にはかかとが、その次の晩には、くるぶしまで見えた。
「足が生えてきとるやないか」と先輩は言った。首を振る音が、どこかうれしそうだった。「幽霊としては失業やな」
それから、わたしは彼女の夢に出ていない。出る必要がなくなったのだ。今は台所のテーブルの上、毎晩少しずつページの増えていくスケッチブックの中に住んでいる。
ときどき、押し入れのほうから、首を振る音が聞こえる。先輩はまだ練習を続けているらしい。うらめしやあ。語尾が、やっぱり少し明るい。
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