
夢の中で、私は、満員のスタジアムの観客席にいた。
九回裏、ツーアウト満塁。打席には、我らが湊シーガルズの四番。私は、青いタオルを握りしめて立ち上がった。打球が、高く高く舞い上がる。
入れ、入れ、入れ。
そのとき、隣の席の男が、赤いメガホンを振り回しながら叫んだ。「捕れえええ!」
振り向くと、それは、あいつだった。
――目が覚めると、枕元のスマホに、あいつからメッセージが届いていた。「今日、何時集合?」
話は、三か月前にさかのぼる。
私、葵は、生まれたときから湊シーガルズのファンだ。父に連れられて初めて球場に行ったのは、五歳の夏。それから二十年、青いユニフォームを着て、一塁側の外野席で声をからしてきた。
その日、私は、チケットの座席番号を見間違えて、なぜか三塁側の、相手チームの応援席に座ってしまった。気づいたのは、試合が始まってからだった。周りは、真っ赤なユニフォームの森ファルコンズのファンばかり。
「……あの、それ、シーガルズのユニフォームですよね」
隣の席の男が、引きつった顔で話しかけてきた。真っ赤なユニフォームに、ファルコンズのはちまき。
「間違えたんです。すぐ移ります」
「いや、もう満席ですよ。ここで、静かにしててもらえれば」
静かにできるわけがなかった。三回、シーガルズが先制点を挙げた瞬間、私は、思わず立ち上がって叫んでしまった。周りから、冷たい視線が突き刺さる。隣の男が、頭を抱えた。
「よっしゃああ!」
「静かにって言ったでしょう!」
ところが、七回にファルコンズが逆転すると、今度は隣の男が、メガホンで私の頭を叩きそうな勢いで跳びはねた。
「どうだ、見たか!」
「頭の上でメガホン振らないでください!」
試合は、ファルコンズの勝ちで終わった。私は、ふてくされて席を立とうとした。すると、隣の男が、気まずそうに言った。
「……さっきは、すみません。つい、熱くなって」
「私もです」
駅までの道で、私たちは、なぜか今日の試合の反省会をしていた。あの継投はなかった、いや、あの采配は正しかった。気づけば、一時間も話しこんでいた。
彼の名前は、蓮といった。
それから、私たちは、シーガルズとファルコンズの試合があるたびに、一緒に球場へ行くようになった。もちろん、座るのは、どちらの応援席でもない、ネット裏の中立の席だ。
シーガルズが勝った日、私は「うちが勝った」と胸を張る。ファルコンズが負けた日、蓮は「あいつらが負けた」とぼやく。ファルコンズが勝てば立場が逆になる。周りの客からは、いつも笑われていた。
不思議なことに、蓮と並んで試合を見ていると、ピッチャーが投げる瞬間、二人して同じように体に力が入る。打球が飛ぶと、同じように身を乗り出す。応援しているチームは違うのに、見ている景色は、いつも同じだった。
八月のある日、試合が雨で中止になった。行き場をなくした私たちは、駅前の居酒屋で、ほかの球場の試合をテレビで見ることにした。
「ファルコンズを好きになったのは、じいちゃんの影響なんだ」
枝豆をつまみながら、蓮がぽつりと言った。子どものころ、毎週末、おじいさんのラジオで一緒に中継を聴いていたこと。去年、そのおじいさんが亡くなったこと。三塁側のあの席は、おじいさんがいつも座っていた席だったこと。
「だから、あの日、葵が青いユニフォームで座ってたとき、正直、ちょっとむっとした」
「……ごめん」
「いや。じいちゃんだったら、たぶん、敵のファンとも一晩じゅう野球の話してたと思う。そういう人だったから」
テレビの中で、誰かがヒットを打った。私たちは、どちらのチームでもない試合なのに、二人そろって「よし」と声をあげて、顔を見合わせて笑った。
九月の終わり、シーガルズとファルコンズは、優勝をかけて、最終戦でぶつかることになった。
その前の晩に見たのが、あの夢だった。
最終戦の日、球場は、青と赤に真っ二つに分かれていた。ネット裏の席で、私は青いタオルを、蓮は赤いメガホンを握りしめていた。
試合は、一点を争う大接戦になった。九回裏、二対一でファルコンズのリード。シーガルズの攻撃、ツーアウト満塁。
夢と、同じ場面だった。
打球が、高く舞い上がる。私は立ち上がって叫んだ。
「入れえええ!」
隣で、蓮も叫んだ。
「捕れえええ!」
白いボールは、レフトの選手がいっぱいに伸ばしたグラブの、ほんの数センチ先を越えて、スタンドに飛びこんだ。
逆転サヨナラ満塁ホームラン。シーガルズの優勝だった。
球場が、青い歓声で揺れた。私は、泣きながら跳びはねた。ふと隣を見ると、蓮が、がっくりと座りこんでいた。
「……おめでとう」
蓮は、悔しそうに、けれど少しだけ笑って、言った。
「来年は、うちが勝つ」
「来年も、一緒に見るってこと?」
私が言うと、蓮は、耳まで赤くなった。それから、赤いメガホンを膝に置いて、ぼそりと言った。
「来年も、再来年も。……それとも、葵がファルコンズに鞍替えするまで」
「それは、一生ないかな」
「じゃあ、一生だな」
その夜、また、スタジアムの夢を見た。
満員の観客席。青と赤の歓声が、交互に響いている。けれど、私の隣の席には、もう知らない男はいなかった。
青いタオルと赤いメガホンを、二人で一緒に振りながら、私たちは、同じ打球の行方を見上げていた。
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