【夢物語】屋上の巣箱に告げる|蜂の夢

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【夢物語】屋上の巣箱に告げる|蜂の夢

夜のオフィスに、律子はひとりで座っていた。

蛍光灯は半分消えていて、窓の外には向かいのビルの非常灯だけが緑色に光っている。耳のすぐそばで、低い羽音がした。

振り向くと何もいない。けれど音はやまない。

キーボードの上を、一匹の蜂が歩いていた。細い脚がキーを踏むたび、画面に文字が一つずつ増えていく。

い、つ、い、う、の。

そこで目が覚めた。枕もとの時計は五時前を指していた。

◇

真柴律子は三十八歳で、下町の小さな印刷会社の総務課にいる。勤めて十六年になる。

その春、社長が突然「屋上で蜂を飼う」と言い出した。都会のビルで養蜂をする会社が増えているらしい。地域のためにもなるし、会社の名前も売れる。そう言って、担当に律子を指名した。

「総務だから」

理由はそれだけだった。律子は蜂が苦手だった。子どものころ、校庭で刺されたことがある。

巣枠を持ち上げる二人の養蜂家

週に一度、養蜂を教えに来るのは坂巻という二十五歳の青年だった。首にタオルを巻き、いつも少し眠そうな顔をしている。

初めて巣箱を開けた日、律子は面布の中で息を止めていた。ふたを持ち上げると、何千という蜂がいっせいに動き、むっとする甘い匂いが立ちのぼった。

「大丈夫です。こっちが慌てなければ、向こうも慌てません」

坂巻はそう言って、素手に近い薄い手袋で巣枠を持ち上げた。蜂は彼の腕を歩き回り、やがてまた巣に戻っていった。

◇

夢は、それから何度も続いた。

夜のオフィス。羽音。キーボードを歩く蜂。画面に打たれる文字は、いつも同じだった。

いつ言うの。

律子には、思い当たることがあった。

三か月前、律子はひそかに別の会社の面接を受けていた。長野の小さな出版社だった。学生のころ、本を作る仕事がしたかった。印刷会社に入ったのも、少しでも本の近くにいたかったからだ。

先月、内定の連絡が来た。返事はもうしてある。来月の末には、こちらを辞めることになる。

それなのに、まだ誰にも言っていなかった。上司にも、同僚にも、社長にも。言おうとするたび、十六年分の顔が浮かんで、喉の奥で言葉が止まった。新人のころに仕事を教えてくれた先輩。毎朝、律子の机に回覧板を置いていく経理の女性。蜂を飼うと言い出したときの、少年のような社長の顔。

◇

五月の終わりに、初めての採蜜をした。

坂巻が巣枠の表面の白い蓋を、ナイフで薄くそぎ落としていく。その下から、琥珀色の蜜がゆっくりとにじみ出てきた。遠心分離機の取っ手を回すのは律子の役目だった。重たい音のあとで、注ぎ口から細い金色の糸が垂れはじめた。

「これ、全部この辺の花なんですよ。公園の木とか、川沿いの草とか」

坂巻の言葉に、律子は屋上から下町の屋根を見渡した。こんな灰色の街のどこに、それほどの花が咲いているのだろうと思った。

瓶詰めした蜂蜜には、営業課の若い社員が会社の名前入りのラベルを作ってくれた。律子は昼休みに、それを一本ずつ社員に配って回った。

「真柴さん、すごいじゃないですか」

「来年もやるんですよね」

誰かがそう言うたびに、律子は笑ってうなずいた。うなずくたび、胸の奥の小さな針が、少しずつ深く刺さっていく気がした。

◇

六月になると、蜂の数はぐっと増えた。

屋上の巣箱の前で、坂巻が一匹の蜂を指さした。巣の入り口の板の上で、その蜂はお尻を小刻みに振りながら、くるくると同じ形を描いて歩いている。

「あれ、仲間に花の場所を教えてるんです。どっちの方角に、どれくらい遠くにあるか」

「言葉もないのに」

「言葉がないから、体ごと伝えるんでしょうね」

坂巻は面布の中で、少し笑ったようだった。

その日の帰り、律子は駅のホームで上司の名前を携帯の画面に出したまま、しばらく立っていた。電車が二本通り過ぎた。結局、何も打たずに画面を消した。

その夜も、蜂の夢を見た。

キーボードの上の蜂は、今度は文字を打たなかった。ただ、律子の手の甲にのぼってきて、じっとこちらを見ていた。

◇

月末の金曜日、律子は終業後にひとりで屋上へ上がった。

夕方の光が、向かいのビルの窓に反射している。巣箱の前に立つと、羽音がいつもより静かに聞こえた。多くの蜂が、もう巣に戻っているのだろう。

律子は面布をかぶらなかった。

巣箱の側面を、指の背で二度、軽く叩いた。中の羽音が、ほんの少しだけ高くなった。

「来月で、辞めます」

声に出すと、思っていたより小さな声だった。

「長野に行きます。本を作る会社です。ずっと、やりたかったことなので」

蜂たちは、何も答えなかった。羽音は少し高くなったまま、やがて元の低さに戻っていった。一匹が入り口から出てきて、律子の袖にとまり、すぐにまた巣の中へ消えた。

刺されなかった。

律子はしばらくそこに立っていた。遠くで電車の走る音がして、川のほうから湿った風が吹いてきた。あの風に乗って、蜂たちは明日もどこかの花まで飛んでいくのだろう。律子が長野へ行ったあとも、きっとそうだ。

それから、階段を下りた。

総務課のある三階を通り過ぎ、四階の廊下に出る。突き当たりの社長室には、まだ明かりがついていた。

律子はドアの前に立った。指の背で、二度、軽く叩いた。

「どうぞ」

中から声がした。

この夢の意味は → 【夢占い】蜂の夢
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