
最初に運ばれたのは、わたしの鞄だった。
夢の中のことだ。
更地の向こうに、夜の工事現場があった。建設途中のビルの骨組みのあいだから、長いクレーンのアームだけが空へ伸びている。
先端の赤い灯が、暗い空気の中でゆっくり点滅していた。
わたしは自分の部屋のベランダに立って、それを見ていた。
音はほとんどなかった。
ただ、ときどきワイヤーが張るような細い音がして、何か重いものがわずかに揺れる気配だけが、風もない空気を渡ってくる。
クレーンは、紺色のトートバッグを吊っていた。
通勤に使っているものに、よく似ていた。
いや、似ているのではなく、それだった。
底が少したわんでいる。中に何か入っているらしい。
クレーンはそれをどこへ運ぶでもなく、わたしの部屋の窓の前でしばらく揺らしていた。
少し左へ。少し右へ。
そこで目が覚めた。
朝の光の中で見ても、鞄は玄関にあった。昨夜、自分で置いた場所に、ちゃんとある。
それでも胸の奥には、夢の中でワイヤーがきしんだ音だけが薄く残っていた。
そのころ、職場ではわたしが最後に残ることが増えていた。
締切前の資料。急に辞めた人の引き継ぎ。会議録の整理。返信漏れの確認。名前のついた仕事より、名前のつかない仕事のほうが多かった。
助かる。
頼りになる。
莉子さんだと早いから。
その言葉に悪気はない。
悪気がないから、断りにくい。
二日目の夢で、クレーンはもっと近くにいた。
向かいの駐車場に、巨大な車体が当然みたいな顔で停まっている。支柱が四方に張り出し、ワイヤーはまっすぐ、わたしの部屋の高さまで伸びていた。
今度、吊られていたのは青いシートにくるまれた四角い荷物だった。端に白いタグがついている。文字が書いてあった。読めそうで読めないまま、荷だけがわずかに揺れていた。
朝、枕元のスマホが床に落ちていた。
寝る前には充電器につないだはずなのに、コードだけがベッドの上に残っている。
拾い上げたケースの裏に、白い粉のようなものがうっすらついていた。乾いた、細かい粉だった。指でこすると消えたけれど、それがかえっていやだった。
三日目の朝、社員証がなくなった。
喉の奥が、急に狭くなった。
洗面所、キッチン、机の上。順番に探して、最後に寝室へ戻ったとき、社員証はベッドの下に落ちていた。白い縁に、コンクリートで擦ったみたいな灰色の跡がついていた。
その日、会社で後輩が言った。
「昨日の夜、修正ありがとうございます。助かりました」
わたしは顔を上げた。
「昨日の夜?」
「二十三時すぎです。チャットで送ってくれてましたよね」
履歴を見ると、たしかに送っていた。
二十三時十二分。添付ファイルつき。簡潔で、癖のない文面。たしかにわたしのアカウントから送られている。
けれど、そんな記憶はなかった。
その晩、スマホの電源を切った。
鞄はクローゼットにしまい、鍵をかけた。
社員証は封筒に入れて、引き出しの奥へ押し込んだ。
それでも夢は来た。
クレーンは、もう部屋の中にいた。
ワンルームの床から黒い車体がせり上がり、黄色いアームが天井すれすれを通っている。ありえないはずなのに、ベッドとローテーブルのあいだへ当然のように食い込んでいた。
油と鉄の匂いがした。
乾いた、埃っぽい匂い。
ワイヤーの先には、何もついていない。
空のフックだけが、ゆっくり降りてくる。
かちり。
かちり。
小さな音を立てながら、そのフックはわたしの肩の高さで止まった。
その位置が、妙に正確だった。
目が覚めたとき、鎖骨の下に薄い赤い跡が二本ついていた。
爪ではない。まっすぐでもない。細い何かが、一瞬だけ食い込んだみたいな跡だった。
昼休みに早退の相談をしようとしたけれど、上司は会議中で、戻ってきたと思ったら電話を始めた。待っているあいだに、別の人が紙の束を持ってきた。
「ごめん、これだけ先に見てもらえる?」
それは、いつもの調子だった。
本当に、いつもの調子だった。
だからわたしは受け取ってしまった。
紙の重みが、指先にはっきり乗った。
その一瞬だけ、夢の中のワイヤーを思い出した。
帰宅したのはまた遅い時間だった。
鍵を開けた瞬間、何かがおかしいと思った。荒らされた様子はない。電気も消えている。窓も閉まっている。
なのに、ローテーブルがほんの少しだけ左へずれていた。
たった数センチのことなのに、すぐわかった。
床の傷と脚の位置が合わない。影の落ち方が、いつもと違う。
わたしは靴を脱がないまま立ち尽くした。
冷蔵庫の低いうなり。
換気口の浅い音。
その奥で、もっと細く、高い音がした。
金属が張るような音だった。
振り向いても、何もない。
閉じたカーテンと、影になったベッドが見えるだけだ。
その夜は眠らないつもりだった。
けれど、ソファに座ったまま、いつのまにか意識が途切れていた。
夢の中で、部屋は半分なくなっていた。
壁の一面が剥がされ、その向こうに夜の工事現場が続いている。
鉄骨の骨組み。仮設灯の白い明かり。
湿ったコンクリートの匂い。
わたしの部屋の床と現場の床が、段差もなくつながっていた。
クレーンはその境目に立っていた。
ワイヤーの先には、白い箱が吊られていた。
事務用の、どこにでもある蓋つきの箱。側面に黒い字が書いてある。
読めた。
Liko / 雑務・調整・確認用
箱の下には付箋が何枚も貼られていた。
返信。
代行。
フォロー。
差し戻し。
空気を読む。
空気をつなぐ。
見覚えのある言葉ばかりだった。
クレーンは、その箱を何も言わずに吊り上げた。
高く、高く。
仮設灯の白さを越えて、夜の見えないところへ運んでいく。
待って、と言おうとした。でも、その前に気づいた。
白い箱はひとつではなかった。
暗がりの奥に、同じ箱がいくつも積まれている。整然と、丁寧に、少しずつ項目だけを変えて。
Liko / 緊急対応用
Liko / 感情処理用
Liko / 穴埋め用
Liko / 後回し用
そして、いちばん奥に、まだ何も書かれていない空箱がひとつだけあった。
それを見た瞬間、足元が冷えた。
次に何が入るのか、考えたくないのにわかってしまう感じがした。
目が覚めたとき、喉がからからだった。
明け方の白い光が、カーテンの隙間から細く差している。
ソファから立ち上がろうとして、足元に紙が触れた。
厚手のラベル紙だった。
黒い、整った文字が印字されている。
搬出予定 次回
その下に、小さく。
私物整理後。わたしはしばらく、その紙を持ったまま動けなかった。
その日、会社へは行かなかった。
スマホは何度も震えた。電話も鳴った。けれど取らなかった。
代わりに、クローゼットを開けた。
押し込んでいた服。使っていない鞄。封を切っていない書類。床に置いたままの段ボール。見ないふりをしてきたものが、思っていたよりたくさんある。
昼を過ぎるころ、ゴミ袋は三つになった。
テーブルを元の位置へ戻し、床を拭き、植物に水をやり、シンクの皿を洗った。
部屋は少し広くなった。
それでも夕方になると、まだ何かが足りない感じがした。
夜になる前に、会社へメッセージを送った。
しばらく休みます。引き継ぎは可能な範囲で整理します。これ以上の追加対応はできません。
送信したあと、すぐには何も起こらなかった。
窓の外で車が一台通り、遠くで犬が吠えた。生活の音だけが、順番に夜へ沈んでいく。
その晩、夢は来なかった。
けれど、明け方近くに目が覚めた。
理由はわからない。冷蔵庫の音だけが、部屋の底で低く鳴っている。
何かを確かめるみたいに、わたしはそっとカーテンを開けた。
向かいの駐車場に、大きな車両が停まっていた。
工事用のクレーン車だった。
夜明け前の青い光の中で、アームはまだ畳まれたまま、じっとしている。エンジンも切れていて、警告灯も点いていない。
ただ、運転席のフロントガラスに白い紙が一枚、内側から貼られていた。
遠くて読めない。
読めないはずなのに、そこに自分の名前が書いてある気がした。
ガラスに映ったわたしの息が、うすく曇る。
その曇りが消えるころ、クレーンの先端が、ほんの少しだけ持ち上がったように見えた。

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