【連載】夢見町の案内人― 白藤の残夢 ― 第二話 Golden Anima の灯

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翌日の午後になっても、あの言葉は胸の奥に残っていた。

――まだ、わたしは帰れていない。

朝、目を覚ましたときには夢の輪郭はもう薄れていたのに、その一文だけは、水に濡れた紙みたいにぴたりと心に貼りついて、離れなかった。
台所で母が味噌汁をよそっている音を聞きながらも、わたしはどこかぼんやりしていて、何度か呼ばれてからようやく返事をした。

「顔色、まだよくないね」

母はそう言って、湯気の向こうからこちらを見た。
心配そうにも、そうでないようにも見える曖昧な顔だった。

「うん。ちょっと寝つきが悪かっただけ」

そう答えながら、わたしは自分の声が、少し遠くから聞こえてくるような気がした。

昼を過ぎてから、買い物に出ることにした。
洗剤が切れていたし、ノートも一冊ほしかった。そういう、なくても困らないけれど、あったほうがいいものを理由にして外へ出ると、空は薄い雲に覆われていた。
宵待町の午後は静かだった。
東京なら、平日の昼でも絶えず何かが通り過ぎていくのに、ここでは風さえ遠慮がちに吹く。

商店街へ向かう途中で、わたしは一度だけ立ち止まった。

昨日、黒猫が消えていった路地が、少し先に見えていた。

別に、そこへ行くつもりではなかった。そう思うのに、気づけば足はその細い道へ向かっていた。石畳のあいだに細い草が伸び、両側の古い建物が光を狭くしている。昨日と同じ路地なのに、黒猫の姿はどこにもなかった。

いないことが、かえって現実味を増した。

たしかに昨夜、わたしはここを通ったのだ。
あの店に入り、あの人に会って、古いしおりを見た。
夢ではなかった。そう確かめるように、わたしは路地の奥まで歩いていった。

やがて、やわらかな琥珀色の灯りが見えた。

Golden Anima。

木の看板は昼の光の下では少し色褪せて見えたけれど、その店だけ、時間が違う速さで流れているみたいだった。
表のガラス越しに、本棚の影と、あたたかな照明の輪郭が見える。
わたしはしばらく戸口の前に立ったまま、深呼吸をひとつしてから扉を開けた。

小さな鈴が、低い音で鳴った。

昨日と同じ香りがした。
珈琲と、古い紙と、少しだけ湿った木の匂い。
けれど昼間の店内は、昨夜よりも静かだった。
静かすぎる、というほうが近いかもしれない。
外の商店街の気配が、ここに入ると急に遠のく。世界の音だけが一枚薄い布の向こうへ回されてしまったようだった。

窓際には、昨日と同じ席に男が座っていた。
年齢のわかりにくい、痩せた横顔。
開いた新聞を前にしているのに、一度も紙をめくる気配がない。
奥の棚のそばでは、濃い色の表紙の本を読んでいる女がいた。
姿勢よく椅子に腰かけ、指先だけでそっとページをめくっている。その音だけが、小さく響いた。

いらっしゃいませ、と声がした。

顔を上げると、カウンターの向こうにAnimaがいた。
今日は長い髪をゆるく後ろへ流していて、白い陶器のカップを持っていた。
やわらかな色の服と黒いエプロンは昨日と同じなのに、昼の光の下で見ると、年齢がますますわからなくなる。若くも見えるし、とても落ち着いた大人にも見えた。

「こんにちは」

わたしがそう言うと、Animaはほのかに目を細めた。

「こんにちは。今日は、昨日よりちゃんと息ができている顔ね」

思わず、何も返せなかった。

言い方はやさしいのに、見抜かれたような感じがした。
わたしは曖昧に笑ってから、入口に近い席へ腰を下ろした。

「……そんなに、わかりやすいですか」

「ええ。わかりやすい人と、わかりにくい人がいるの。あなたは、隠しているつもりで隠しきれないほう」

冗談めかしているようで、声色は静かだった。わたしは困ったように視線を落とした。

「珈琲、飲めるかしら」

「はい。たぶん」

たぶん、という返事がおかしかったのか、Animaは小さく笑った。その笑い方は親しみやすいのに、どこまで近づいていいのかはわからない。そういう人だった。

カップが置かれるまでのあいだ、わたしは店の中をあまり見ないようにしていた。けれど視界の端で、本を読む女が一度だけ顔を上げたのがわかった。
目が合うより先に、胸の奥がざわついた。見覚えがある、というのとは違う。
ただ、その横顔をどこかで知っているような気がした。
けれど思い出せない。思い出そうとすると、指先にうすい冷たさが走った。

珈琲の香りが、近くでひらいた。

「昨日、なにか見つけたのでしょう」

何気ない調子で、Animaが言った。

わたしは思わず顔を上げた。

「……どうして」

「あなた、気にしているときは、黙るのが少し下手なの」

そう言って、Animaはカップの取っ手をわたしの手元へ向けて置いた。白い湯気が、ほんの一瞬、夢の中の靄みたいに見えた。

「しおり、ですよね」

自分でも、思ったより早く口にしてしまったと思った。

Animaは否定しなかった。カウンターの下に手を伸ばし、古びた紙片を取り出す。昨日わたしが見たものと同じ、薄いクリーム色のしおりだった。端に小さな傷みがあり、触れれば折れてしまいそうなほど軽い。

そこに書かれていた文字を見たとき、息が浅くなった。

まだ、わたしは帰れていない。

まるで、昨夜の夢の続きを現実の紙に写したようだった。

「これ……前から、ここに?」

「ええ。ずっと前から」

「誰が書いたんですか」

その問いに、Animaはすぐには答えなかった。答えないまま、しおりをそっと指先で撫でる。その仕草だけが、なぜかひどく丁寧だった。

「書いた人より、残ったことのほうが大事なものもあるのよ」

わたしは意味がわからず、けれど聞き返せなかった。
わからない言葉なのに、胸のどこかではわかってしまうような気もしたからだ。

沈黙が落ちる。
けれど、その沈黙は気まずくはなかった。
むしろ、こちらが話し出すのを待っている、静かな余白だった。

わたしはカップに口をつけてから、小さく息をついた。

「……夢を見たんです」

「ええ」

「駅にいたんです。誰もいなくて、白いものが降っていて。女の子がいて……その子が、同じことを言ったんです。まだ、わたしは帰れていないって」

言い終えたあとで、こんな話をしてしまったことが急に恥ずかしくなった。
疲れていると思われるかもしれない。
変な人だと思われるかもしれない。
けれどAnimaは、驚くでも笑うでもなく、ただ静かに聞いていた。

「夢ってね」

と、彼女は言った。

「忘れるもののほうが多いでしょう。でも、ときどき残るの。景色じゃなくて、言葉だけ。匂いだけ。それか、どうしても胸の奥から離れない感じだけ」

店の奥で、ページをめくる音がした。

「そういう夢は、見たというより、触れてしまった夢なのかもしれないわね」

その言葉に、わたしは無意識に指先を握りこんでいた。触れてしまった。たしかに、そんな感じだった。ただ見ただけではなく、なにか冷たいものに皮膚の内側から触れられたような。

そのとき、棚の端に一冊の古いノートが見えた。
濃紺の表紙に、擦れた白い花の模様。白藤の房に見えたのは気のせいかもしれない。
わたしがそちらへ視線を向けたのに気づいたのか、Animaはごく自然な動作でそのノートを閉じた。

ほんのささいな仕草だった。けれど、見てはいけないものに目をやってしまった気がした。

「大事なものなんですか」

「ええ」

Animaは微笑んだ。

「なくなると困るくらいには」

それ以上は訊かないほうがいい気がして、わたしは黙った。窓際の男は相変わらず新聞から顔を上げない。
本を読む女は、いつのまにかまたページをめくっている。
その店の静けさの中にいるうちに、時間の感覚が曖昧になっていった。

帰る頃には、外は少し薄暗くなっていた。

「またいらっしゃい」

扉のところで、Animaがそう言った。

その声はやさしかった。けれど次の瞬間、彼女は少しだけ首を傾げて、まるで思いついたことを落とすように言った。

「水の近くの夢を見たら、朝まで忘れないでいて」

理由を聞く前に、彼女は静かに笑っただけだった。

店を出ると、夕方の空気が思ったより冷たかった。
手にはまだ珈琲の香りが残っている。
路地を抜けて商店街へ戻る途中、どこかで紙の擦れる音がした。
ふり返ったけれど、誰もいない。少し先の角に黒い影が見えた気がして目を凝らすと、金色の目だけが一度こちらを見て、すぐに消えた。

その夜、わたしは橋の夢を見た。

古い欄干。
黒い水。
揺れる水面の上を、白い花びらのようなものが流れていく。向こう岸に誰かが立っていた。顔は見えないのに、その人がこちらを知っていることだけは、なぜかわかった。

耳もとで、声がした。

――帰ってきたね。

目が覚めたあとも、その声だけが、朝の部屋の中に残っていた。


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