

妹の健診を控えた朝、奈緒は名もない不穏を残す夢を見る。
誰かに降りかかる異変の予兆と思われたその警告は、連絡の空白をたどるうち、やがて向きを変え、彼女自身の危うさへと静かに届いていく。
赤ちゃんが死ぬ夢をテーマとした創作物語となります。
明け方、奈緒は白い部屋の夢を見た。
病室に似ていた。けれど病院よりも静かで、息をする音まで吸い込まれてしまいそうな部屋だった。窓際に小さなベッドがひとつあり、薄い毛布だけがきれいに折られている。中には何もない。
何もないのに、ついさっきまで、そこに誰かがいたようなぬくもりだけが残っていた。
奈緒はそのベッドに近づけなかった。
足元で、小さな名札が揺れている。白い紙のままで、名前は書かれていない。
なぜだかわからない。ただ、その空欄だけが、夢の中ではひどく目についた。
目が覚めると、喉の奥がからついていた。
枕元のスマホを取る。六時十二分。通知はない。
そこで奈緒は、昨夜、妹から届いていたメッセージを思い出した。
――明日、健診なんだ。朝いちだから、終わったらまた送るね。
すぐにトーク画面を開く。
昨日のやりとりのまま、何も増えていなかった。
電話をかけようとして、やめた。まだ早い。健診の前かもしれない。
そう思い直してキッチンへ向かったのに、水を注いだあと、また画面を見てしまう。冷蔵庫の音が妙に大きい。飲み下した水だけが冷たく、細い筋になって喉を通っていった。
身支度を整えて家を出ても、その感じは消えなかった。
駅までの道で、保育園の送迎バスとすれ違う。閉まった窓の向こうから、子どもの笑い声がぼんやり聞こえた。赤信号で立ち止まるあいだ、奈緒は何度も妹のトーク画面を開いた。未読のままのスタンプが、昨日の位置から動かない。
電車に乗ってから、母にもメッセージを送った。
今日、由佳の健診だったよね。終わったら連絡ちょうだい。
すぐに既読がつく気がしていた。
だが、それもつかなかった。
オフィスに着くころには、背中がうっすら汗ばんでいた。
「奈緒さん、これ添付抜けてますよ」
朝一番で隣の席の真鍋に言われた。
送ったつもりの資料に、肝心のファイルがついていない。奈緒はすみません、と返し、送り直した。自分の声が思ったより低く、乾いて聞こえた。
十時を過ぎても連絡はなかった。
会議中、机の下でスマホを確かめる。
十一時になっても、母にも妹にも、まだ既読がつかない。
何かあったのかもしれない。
そう思った瞬間から、頭の中の景色が変わった。
産院の白い廊下。
朝のあわただしい空気。
看護師の速い足音。
電話をする余裕もないほどの何か。
考えなくていいことばかりが、妙にはっきり浮かぶ。
昼休みになっても食欲は出なかった。コンビニで買ったサンドイッチは、袋を開けただけで机の脇に置かれたままだった。真鍋が「午後の打ち合わせ、十五時からでしたよね」と声をかけてきて、奈緒は一瞬、何のことかわからなかった。
母から返信が来たのは、その少しあとだった。
――ごめん、気づかなかった。病院ついてるよ。
その一文だけで、奈緒の指先はまた冷えた。
ついてるよ、のあとに、元気だよ、がなかった。
すぐに電話をかける。
コール音が一度、二度、三度。
四度目で切れた。
かけ直しても出ない。
胸のあたりが少しずつ狭くなっていく。息を吸っているつもりなのに、うまく下まで入っていかない。
「奈緒さん、ほんとうに大丈夫ですか」
真鍋の声が、今度は少し近かった。
奈緒はうなずいた。大丈夫です、と言いかけたが、喉の奥で言葉がほどけた。
午後の打ち合わせは上司に頼み、早退することにした。家族の用事で、とだけ伝える。エレベーターの鏡に映る顔は、思っていたより白かった。頬だけでなく、唇の色まで薄い。
駅へ向かう道で、救急車の音がした。
遠くから近づいて、また離れていく。
奈緒は足を止めた。止めても仕方がないのに、しばらくその場を動けなかった。
病院の最寄り駅に着く手前で、スマホが震えた。
由佳の夫からだった。
――健診、問題なかったです。母子ともに元気です。今ちょうど会計待ちしてます。
奈緒は立ち止まったまま、その画面を見た。
窓に映る自分の顔が、ほっとしたものに変わると思っていた。けれど、そこにいたのは、まだ何かを探しているような表情だった。
なら、この息苦しさは何なのだろう。
この一日ずっと体の中に居座っている、薄い震えは。
駅を降りて、病院まで歩いた。行かなくてもいいはずなのに、足はそちらへ向かった。
産院の待合には、やわらかい色のソファが並んでいた。雑誌ラックの横に、小さな木のベビーベッドが飾りのように置かれている。中には淡い黄色の毛布がきれいにたたまれていた。
それを見た瞬間、朝の夢と同じ角度だ、と奈緒は思った。
「お姉ちゃん?」
振り向くと、由佳が立っていた。
丸くなったお腹を片手で支え、もう片方の手に母子手帳を持っている。隣で夫が会計用のファイルを抱えていた。ふたりとも、病院帰りらしい少し疲れた顔をしているだけだった。
「どうしたの、来てくれたの」
由佳はそう言って笑った。
奈緒も笑おうとしたが、唇だけが少し動いて、うまく形にならなかった。
「連絡、なくて」
それだけ言うと、喉が擦れた。
由佳は目を丸くして、それから、ああと小さく言った。
「ごめん。終わってすぐ呼ばれて、先生の話が長くて。母も一緒だったし、あとでいいかって思っちゃって」
なんでもない調子だった。
ほんとうになんでもなかったのだと、その声でわかった。
奈緒はようやく肩の力を抜こうとした。
けれど、うまく抜けなかった。代わりに、膝の奥から急に力が引いていく感じがした。
「お姉ちゃん?」
由佳が奈緒の手首に触れる。ひや、と小さく眉を寄せた。
「つめたい」
その一言で、奈緒は思い出した。
朝から、ほとんど何も口にしていない。水だけ飲んで、サンドイッチも開いたまま、呼吸ばかり浅くして、外側の何かを疑い続けていた。
待合のソファに座らされ、紙コップの水を受け取る。
少しずつ飲むあいだ、由佳と夫が何か話していたが、奈緒の耳には、言葉より空調の風の音が先に届いた。
白い壁。
やわらかい照明。
飾りのベビーベッド。
夢の中の部屋に似ているのに、ここにはちゃんと人の声があった。
「お姉ちゃん、最近ちゃんと寝てる?」
向かいからのぞき込む由佳の声は、責めるものではなかった。だからこそ、奈緒は返事に困った。
春からの人事で部署が変わり、帰りが遅い日が増えた。
母の通院の付き添いもあって、休日はつぶれがちだった。
食事は適当で、夜はスマホを見たまま寝落ちする。
ちゃんとしなきゃ、と思うことばかり増えて、ちゃんと休むことだけが後回しになっていた。
それでも、やれているつもりだった。
今朝の夢も、誰かに何か起きる知らせだと思った。外側に向かって鳴る警報だと。
けれど、ほんとうはもっと手前で鳴っていたのかもしれない。
空っぽのベッド。
名前のない札。
あれは、まだ起きていない不幸の景色ではなく、中身のないまま走り続けていた自分の一日を、先に見せられていただけなのではないか。
「これ、見る?」
由佳が母子手帳にはさんでいた写真を差し出した。
白黒の、小さな輪郭。
奈緒は受け取って、しばらく黙って見た。丸みを帯びた影が、暗い海の底で静かに眠っているように見えた。
「元気だって」
由佳が言う。
奈緒はうなずいた。
写真を返すとき、自分の指先が少しだけ温まっているのに気づいた。
帰り道、病院の自動ドアの外で、奈緒は一度立ち止まった。夕方の風が頬に触れる。空はうすく曇っていて、光はやわらかい。
スマホを開き、会社の上司にメッセージを送る。
今日はご迷惑をおかけしました。
明日の午前、少し遅れて出社します。
送ってから、母にも短く入れた。
今度の通院、午後に変えられるか聞いてみるね。
それから少し考えて、メモのアプリを開く。
朝ごはんを食べる。
寝る前に画面を見ない。
来週、休みを一日取る。
たったそれだけの文字なのに、打ち終えるまでに何度か指が止まった。
けれど今度は、途中で閉じなかった。
信号が赤に変わる。
人が立ち止まる。
奈緒も一緒に止まった。
今日になって初めて、その赤が、急かす色ではなく見えた。



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