【夢物語】ひびの音を、まだ知らない

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夢占い 壊れる
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うん、嬉しい。
そこが伝わったなら、もうだいぶ近いね。私も、あの方向に寄せたほうがこの話はきれいに立つと思う。

今回は、感情を少し引いて、しぐさや音や間で見せるほうへ改稿してみたよ。
とくに終盤は、言い切らずに残す感じを意識した。たぶん前より、読んだあとにじわっと残るはず。

ひびの音を、まだ知らない

「大丈夫」

そう言うたび、真琴は少しだけ口角を上げた。
それでたいていの場面は収まったし、相手も安心したように見えた。

待ち合わせに二十分遅れてきた圭介は、改札の向こうから軽く手を振って、「ごめん、仕事長引いて」と言った。
真琴は鞄の持ち手を握り直し、「ううん、平気」と返した。

ホームを抜ける風が、春物の薄い裾だけをさらっていく。
その日おろしたばかりのワンピースのすそを、出がけに鏡の前で何度も直したことは、言わなかった。

言えば、何かが少し変わってしまいそうだった。
だから笑った。
それだけのことにしておいた。

その夜、夢を見た。

自分の部屋だった。
白い棚の上のガラスの小物入れに、細い線が一本、いつのまにか入っている。
ひびだ、と気づいたとたん、少し遅れて、ぴし、と乾いた音がした。

真琴は夢の中で立ち尽くしていた。
触れてもいないのに、壊れた。
ただそれだけなのに、目が離せなかった。

朝になっても、その音だけが耳の奥に残っていた。

それから夢の中では、いろいろなものが少しずつ壊れた。
マグカップの取っ手。
リップの蓋。
スマホの端に走る、爪の先ほどのひび。

どれも、すぐには困らない壊れ方だった。
使えなくはない。けれど、前と同じ手ざわりではない。
指先が触れるたび、そこだけわずかに引っかかった。

現実も、少し似ていた。

圭介はやさしい人だった。
ひどいところを並べようと思えば、うまく並ばないくらいには。
会えば笑うし、荷物が重ければ持ってくれる。寒い日には、コンビニで温かい飲み物を選んでくれたりもする。

ただ、真琴が黙っていることには、よく慣れていた。

「この前の映画、ほんとは別のやつ観たかった?」
そう聞かれても、真琴は反射みたいに「ううん」と答えた。

「最近、仕事きつい?」
それにも「そんなことないよ」と言った。

観たかった映画は、別だった。
仕事も、少し立て込んでいた。
会いたい日ほど、そう言えずに終わることが増えていた。

けれど、言葉はいつも喉の手前でほどけた。
口に出すにはまだ形が決まらず、そのまま沈んでいく。
そういうことが、もうずいぶん続いていた。

ある夜、久しぶりに寄った実家から、真琴は祖母の形見の手鏡を持ち帰った。
銀色のふちに小さな花模様が刻まれた、掌に収まる古い鏡だった。

高校生の頃、祖母がくれたものだ。

――女の子はね、ちゃんと自分の顔を見なきゃだめよ。泣きそうな顔も、つよがってる顔もね。

あのときは照れくさくて笑っただけだった。
けれどその手鏡だけは、引き出しの奥にしまったままでも、どうしても手放せなかった。

その夜も、夢を見た。

暗い部屋の真ん中に、手鏡だけが置かれていた。
真琴はそれを拾い上げる。
鏡の中には自分の顔が映っている。けれど口元だけが、なぜかうまく定まらない。水面に映したみたいに、わずかに揺れている。

背後で圭介の声がした。

「ほんとに大丈夫?」

夢の中の真琴は、いつものように笑ってみせる。
大丈夫、と言おうとした。
言い慣れた、その一言を。

「だい――」

そこで、鏡にひびが入った。

ぴし、という音は、今まででいちばん小さかった。
それなのに、そのあと急に部屋が静かになった。

細いひびは一本では終わらなかった。
冬の薄氷が、水を思い出すみたいに、するすると枝分かれしていく。
鏡の中の顔は、その線の向こうでいくつにも分かれ、もうひとつの表情に戻れなくなっていた。

真琴はそのひびを見つめたまま、ようやく気づいた。

待っていたこと。
何度か言いかけて、やめたこと。
それくらいはわかってほしいと、心のどこかで思っていたこと。

そういう小さなものが、机の引き出しの中みたいに、きちんとしまわれているつもりでいた。
けれど、しまっていたのではなく、押し込んでいただけだったのかもしれない。

目が覚めたとき、部屋はまだ薄暗かった。
カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。
机の上の手鏡は、昨夜のままそこにある。
割れていない。ひびもない。
ただ、冷えた金具のところだけ、白く光っていた。

真琴はしばらくそれを見ていた。
それからスマホを手に取った。

圭介からのメッセージが、夜のうちにひとつ届いている。
『昨日、途中で寝ちゃった。また今度ごはん行こ』

いつもなら、深く考えずに
『うん、行こう』
と返していたと思う。

けれど、その朝は、画面を見たまま指が止まった。
窓の外を、ごみ収集車の音がゆっくり通り過ぎていく。
そのあいだ、真琴は一度だけ息をついて、また画面を見た。

『うれしい』
そこまで打って、少し消して、打ち直した。

『うれしい。けどね、この前は少し待ちくたびれた』
『平気なふりしてた』
『責めたいわけじゃないの。ただ、ちゃんと伝えておきたかった』

送信したあと、手のひらにうっすら汗が残った。
スマホを伏せて机に置く。
その横で、手鏡の留め金が朝の光を細く返していた。

しばらくして、画面が短く震えた。

『気づけなくてごめん』
『平気って言葉、そのまま受け取ってた』
『今度はちゃんと埋め合わせさせて』

真琴はすぐには返信しなかった。
それが正しい返事なのかどうか、まだ決めきれなかったからではなく、
ただ、今は急いで言葉を重ねなくてもいい気がした。

窓の外では、いつのまにか日が高くなっていた。
机の上の手鏡を手に取る。
銀のふちに刻まれた小さな花が、朝の明るさのなかでようやく輪郭を取り戻す。

そっと開く。
そこに映っていたのは、泣きそうな顔ではなかった。
けれど、唇はまだうまく力を抜けずにいた。

真琴はしばらくその顔を見て、それから鏡を閉じた。
かちり、と小さな音がした。

今朝のそれは、ひびの音ではなかった。




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