
その夢の中で、彼女は何度も同じ部屋に立っていた。
古い鏡台のある、薄暗い部屋だった。
夕方なのか、朝なのかもわからない、青灰色の光がカーテン越しに沈んでいる。
鏡の前には自分がいて、けれど鏡の中の自分だけが、いつも少し遅れて動く。
夢の中の彼女は、鏡越しに、誰かを待っていた。
やがて、背後の扉が静かに開く。
振り返らなくてもわかる。
そこに立っているのは、もう会えなくなるはずの人だった。
声をかけようとしても、うまく言葉にならない。
喉の奥が冷たくなって、胸のあたりだけが、きゅうと細く痛んだ。
鏡の中の彼は、何も言わずに微笑んでいる。
けれど現実の部屋には、足音も、気配も、ない。
いるはずなのに、いない。
近いはずなのに、遠い。
その人はやがて鏡の中で、ゆっくり手を振る。
別れの合図のように、静かで、やさしい仕草だった。
そこでいつも、彼女は泣きながら目を覚ました。
もう終わってしまうのだと思った。
大事にしていたものが離れていく。
手のひらに残るはずだったぬくもりが、夢の向こうへ消えてしまう。
そんな気がして、目覚めた朝はいつも少しだけ息苦しかった。
けれど不思議なことに、その夢を見た日から、彼女の心は少しずつ変わっていった。
ずっと言えずにいたことを、言葉にできるようになった。
無理に笑ってごまかしていたことを、「それは少し違う」と認められるようになった。
怖いと思っていた沈黙も、ただの空白ではなく、自分の気持ちを聴くための時間なのだと知った。
その春の終わり、彼女は長く迷っていた仕事を辞めた。
誰かの期待に合わせるたび、少しずつ遠くなっていた自分を、ようやく迎えに行くためだった。
退職の日の帰り道、駅ビルのガラスにふと自分の姿が映った。
足を止めた瞬間、胸の奥で小さく何かがほどける。
ガラスの中の自分は、泣いていなかった。
むしろ、夢の中ではいつも曇っていた表情が、思っていたより静かに、やわらかく見えた。
そのとき、やっと気づいたのだ。
あの夢で見送っていたのは、誰かではなかった。
置いていかれる未来でも、失う関係でもなかった。
鏡の中で手を振っていたのは、
ずっと無理をして、ずっと怯えて、ずっと「大丈夫なふり」をしてきた、昨日までの自分だった。
別れの夢だと思っていた。
終わりの夢だと思っていた。
でも本当は、あれは終わりではなく、ほどけるための夢だったのだ。
古い痛みを手放すこと。
似合わなくなった役を降りること。
もう必要のなくなった悲しみを、静かに見送ること。
夢の中のあの手は、失うための合図ではなく、
新しくなるための合図だったのかもしれない。
彼女はガラスに映る自分を見つめたまま、小さく息を吐いた。
夕暮れの街はやわらかく、ビルの窓は淡く、遠くの雲だけが薄い桃色に染まっていた。
怖い夢だったはずなのに。
泣いて目覚めた夜だったはずなのに。
今になって思えば、あれほどやさしい見送りもなかった気がする。
人はきっと、何かをなくす夢を見るとき、
ほんとうは、なくしていいものを見送っているのかもしれない。
そうして空いた場所に、やっと新しい光が入ってくる。
彼女はもう一度だけ、ガラスの中の自分に目を向けた。
そこには誰もいなかった。
けれどたしかに、もう大丈夫だと告げるような静けさだけが、そこに残っていた。

こちらは逆夢をテーマにした短編作品としてご用意しました。
楽しんでいただければ幸いです。また今日もあなたに良い夢が訪れることを祈っています。
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