【連載】夢見町の案内人 ― 白藤の残夢 ― 第一話 宵待駅の黒猫

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帰ってきた、と思うには、宵待町は少し静かすぎた。

電車が駅へ滑り込むあいだ、わたしは窓に映る自分の顔をぼんやり見ていた。
東京を出る朝には、もう少し肩の力が抜けるのかと思っていた。けれど実際はそんなこともなく、スマホの通知を開く気にもなれないまま、ただ終点まで運ばれてきただけだった。

会社を辞めた、という言い方は、たぶん少し違う。
辞めることになった。そう言うほうが近い。

わたしに直接の責任があったわけではない。

そう言ってくれる人もいた。たぶん、本当にそうだったのだと思う。けれど、何かが起きたとき、正しい説明より先に、その場の空気が結論を決めてしまうことがある。
東京で覚えたのは、そういう種類の息苦しさだった。

宵待駅のホームに降りると、春の終わりの風が細く頬を撫でた。
東京より少し湿っていて、でも呼吸はしやすい。
古い木のベンチ。白く塗り直された手すり。

ホームの端に落ちた椿の花びら。見覚えのある景色のはずなのに、どこかだけ、うまく思い出せない場所みたいに見えた。

そのとき、視線を感じた。

改札の手前に、黒猫がいた。
細身の体に、つやのある黒い毛並み。こちらに寄ってくるでもなく、逃げるでもなく、金色の目だけがまっすぐにわたしを見ている。

「……なに」

小さく声をかけても、猫は瞬きひとつしなかった。
駅の中は妙に静かで、わたしの声だけが、誰もいない場所に落ちたみたいに響いた。

黒猫はようやく尾をひとつ揺らし、くるりと背を向けた。
ただ去っていく、というより、先に行って待つつもりみたいな歩き方だった。

変な猫だな、と思った。
それなのに、わたしはしばらく、その後ろ姿から目を離せなかった。

   ◯

実家の玄関を開けると、母は「おかえり」とも「おつかれさま」ともつかない、曖昧な笑い方をした。

「急に戻ってきてごめん」

そう言うと、母はすぐに眉を寄せた。

「そんなふうに言わなくていいのに。自分の家なんだから」

わたしは曖昧に笑った。
こういうとき、どういう顔をすればいいのか、昔から少しわからない。

二階の自分の部屋は、思っていたよりそのままだった。
机も、本棚も、カーテンも変わっていない。けれど、前はここに何かあった気がする、と思う場所がいくつかある。壁際の棚の上。机の引き出しの奥。窓辺の細いスペース。

何がなくなったのかを思い出そうとすると、頭の中でだけ指先が空を切るみたいに、うまくつかめなかった。

「お姉ちゃん、この前も来てたよ。あんたが戻るなら顔出すって」

「そっか」

「少し休みなさい。顔、思ったより疲れてる」

わたしはまた笑ってごまかした。
ほんとうは、そう言われたときに少しだけ泣きそうになった。でも、泣くほどのことでもない気がして、何も言えなかった。

その夜、眠りは浅かった。

遠くで、電車のブレーキみたいな金属音がした気がした。
この町で、こんな時間にそんな音がするだろうか。そう思ったところで、わたしはもう夢の中にいた。

誰もいないホームに立っていた。

昼でも夜でもない、白く薄まったような時間だった。
風はないのに、駅名標の影だけがかすかに揺れている。
足元を見ると、白い花びらがひとつ、線路際に落ちていた。椿ではない。もっと薄くて、光を吸ったみたいに白い花だった。

ホームの端に、ひとりの少女が立っている。

こちらに背を向けたまま、動かない。
肩にかかる髪も、細い腕も、白っぽい服の裾も見えているのに、輪郭だけがうまく定まらない。近くにいるはずなのに、ずっと遠くにいるような気がした。

呼びかけようとして、声が出なかった。
喉の奥に薄い膜が張ったみたいに、息だけが先に漏れる。

少女は振り返らない。

そのかわり、声だけが聞こえた。

「まだ、わたしは帰れていない」

はっとして目を覚ますと、障子の隙間から朝の光が差していた。
夢だった、とすぐには言い切れなかった。耳の奥に、まだあの声が残っていたからだ。

まだ、わたしは帰れていない。

少女がそう言ったのだと思った。
けれど、その言葉はなぜか、他人のものみたいには聞こえなかった。
誰の声だったのかより先に、自分の中のどこかが、それを知っている気がした。

   ◯

翌日の午後、母に頼まれた買い物の帰り道、わたしはまた黒猫を見た。

商店街の入口。半分降りたシャッターの前。
昨日と同じように、金色の目だけが妙にはっきりしている。

猫は、こちらが見つけたのを確かめるみたいに一度だけ振り返り、それから細い路地へ入っていった。
追いかけるつもりなんてなかった。
けれど歩き出してから、どうして自分がその路地に入っていたのか、うまく説明できなかった。

こんな道、前からあっただろうか。

古い煉瓦塀と、低い建物のあいだ。
空が細く切り取られた先に、小さな店があった。
ガラス扉の向こうに、やわらかな灯りがともっている。喫茶店のようにも見えるし、古書店のようにも見える。けれど、どちらにしても、昼の町の中にあるには少しだけ落ち着きすぎていた。

看板には、細い金文字でこう書かれていた。

Golden Anima

さっきまで先を歩いていた黒猫は、もうどこにもいなかった。
代わりに、扉の曇りガラスに、わたしの顔だけがぼんやり映っていた。

少し迷ってから、扉を押した。
小さな鈴が鳴る。乾いた、高すぎない音だった。

店の中は思っていたより広く、本棚のあいだに丸テーブルがいくつか置かれていた。
古い紙と珈琲の香り。その奥に、雨の日の木みたいな、少し湿った匂いがある。
明るくはないのに暗すぎず、落ち着くはずなのに、なぜか無防備にはなれない。

窓際には、男がひとり座っていた。
黒い手帳を開いたまま、何も書かずにページを見ている。コーヒーにはほとんど口をつけていない。
奥の席には女の人がいた。文庫本を開き、紅茶と固めのプリンを前にして、こちらには一度も目を向けない。しおり代わりに、白い押し花が本のあいだからのぞいていた。

「いらっしゃいませ。……それとも、お帰りなさい、のほうがいいのかしら」

不意にそう言われて、わたしは足を止めた。

声のしたほうを見ると、カウンターの向こうにひとりの女性が立っていた。

自分より年下にも見える。
けれど、そう言い切るにはためらうような落ち着きが、その人にはあった。
華奢な体つきに、淡い色のシャツと黒いエプロン。笑みはやわらかいのに、目の奥だけが、水底みたいにひどく静かだった。

「……わたし、このお店に来るのは初めてなんですけど」

「ええ、そうね」

彼女は上品に笑った。
感じのいい笑い方だった。けれど、どこまでが客に向けた表情なのか、うまく測れない。

「でも、戻ってきた人の顔は、町のほうが先に思い出すのよ」

その言い方が冗談なのか、本気なのか、わからなかった。
わからないままなのに、なぜか聞き返してはいけない気がした。

勧められるまま空いた席に座る。
メニューの横に、古い栞が置かれていた。
何気なく手に取る。薄い紙に、かすれた字が書いてある。

最初は読めなかった。
でも、次の瞬間、指先の温度だけがすっと消えた。

まだ、わたしは帰れていない。

胸の奥が、妙に静かになる。
息を吸ったはずなのに、空気が肺まで落ちていかない。

昨夜の夢で聞いた言葉と、同じだった。

「……どうかした?」

カウンターの向こうで、彼女がたずねる。
やわらかい声だった。けれど、その声音がやわらかいほど、かえって逃げ道がなくなる気がした。

わたしはすぐに答えられなかった。
喉の奥に、夢のホームの冷たさがまだ残っていた。

そのとき、窓の外を黒い影が横切った。

あの猫だ、と思った。
振り向いたときには、もうどこにもいなかった。

ただ、ガラス越しの町だけが、さっきまでより少し遠く見えた。


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