朝から、文花は落ち着かなかった。
あの席の方を、よく見てあげて。
昨夜、店を出る直前にAnimaが置いたその一言が、眠りの浅い時間の底で何度も静かに鳴っていた。窓際の男のことだろうか。
それとも、本を読む女のほうだろうか。思い返そうとすると、どちらの顔もひどく曖昧だったことに気づく。
見ていたはずなのに、覚えていない。
そのことが、文花には少し堪えた。
昼前、買い物のついでに商店街を歩きながら、文花は意識してすれ違う人の顔を見た。
八百屋の店先で袋を結ぶ指先。
クリーニング店の女主人の、話すときだけ少し上がる眉尻。
学校帰りの子どもたちの、靴音の速さ。
町は昨日までと何も変わっていないのに、目を向けるだけで輪郭が増える。そのことが、かえって怖かった。
わたしはこれまで、人をちゃんと見ていただろうか。
それとも、見なくても困らないものとして、風景の中へ混ぜていたのだろうか。
午後になって、文花はGoldenAnimaへ向かった。
細い路地の奥、琥珀色の灯りは今日も変わらない明るさでついている。扉を開けると、鈴が低く鳴り、珈琲と紙の匂いがいつものように迎えた。
そして今日は、入った瞬間に視線が自然と奥へ向かった。
窓際の男は、いつも通り新聞を前にしていた。
本を読む女も、いつも通りそこにいた。
なのに、今日はその“いつも通り”が、はじめて見たもののように感じられた。
女は濃い青の表紙の本を膝にのせていた。
姿勢は静かで、肩の力が抜けている。
髪は肩の少し下で揃えられていて、伏せた睫毛が薄い影を頬へ落としていた。
年齢は文花とそう変わらないようにも見えるし、もっと前から同じ場所に座っていた人のようにも見える。時間の輪郭だけが、その人の周りで少し違っていた。
「いらっしゃい」
Animaが言った。
カウンターの上で受け皿の向きを整えながら、文花のほうを見る。
「今日は、こちらの方が少しだけ落ち着くかもしれないわ」
示されたのは、いつもの入口近くではなく、本を読む女に少し近い席だった。
文花は小さく頷いて、そこへ腰を下ろした。
席につくと、女の手元が見えた。
指は細く、ページをめくる動きが驚くほど静かだった。
爪は短く整えられていて、白い紙に触れるたび、必要以上の音を立てない。
その本に挟まれている栞の端が、ふと視界に入る。古びたクリーム色の紙。先端には、擦れて薄くなった白藤の押し模様。
胸の奥が、小さく鳴った。
文花は目を逸らそうとして、できなかった。
見たことがある。そう言い切るには足りない。けれど、知らないものとして通り過ぎるには、あまりに近い。
珈琲が置かれる。
Animaは何も言わなかった。ただ、カップの持ち手が文花の右手に向くように、いつもより丁寧に置かれた気がした。
店の中は静かだった。窓際の男が新聞をめくる音。
どこかでカップが小さく触れ合う音。
そして、本を読む女の指先がページの端を拾う音。
そのどれもが、今日だけ少しはっきり聞こえる。
文花は鞄の中のノートを意識した。持ってきてはいたが、出すつもりはなかった。
今日は、抜かれたページのことではなく、残っているものを見るために来たのだと、なんとなく思っていた。
不意に、店の奥から細い風が入った。開け放したはずのない窓辺のカーテンがわずかに揺れ、その拍子に、女の本から栞がするりと落ちた。
文花は反射的に立ち上がった。
床に落ちたそれを拾い上げた瞬間、指先に古い紙の乾いた感触が残る。
ノートと同じではない。
けれど、どこか近い手触りだった。
「あ……」
声をかけると、女が顔を上げた。
はじめて、ちゃんと目が合った。
静かな目だった。驚いたようにも見えず、かといって、何も感じていないわけでもない。水面の底をのぞいたときみたいに、近いのに深さが測れない目だった。
「落ちました」
文花が栞を差し出す。
女は少しだけ間を置いて、それを受け取った。
「ありがとうございます」
声は低すぎず、高すぎず、耳に残るほどでもないのに、ふいに懐かしかった。
文花は何か言おうとして、言葉を失った。
はじめまして、と言うのは違う気がした。
お久しぶりです、もおかしい。
そのどちらでもない時間が、ふたりのあいだにだけ静かに置かれていた。
女は受け取った栞を本へ戻し、指先で少しだけ位置を直した。その仕草が、ノートのページを揃えるときの自分の手つきに、ひどくよく似て見えた。
胸の奥で、ばらばらだった断片が、ごくゆっくりと線になりはじめる。
橋の向こうに立っていた白い影。
写真館の写真の端にいた、うまく数えられない少女。
ノートに何度も書かれていた「あの子」。
母が上手に避けてきた沈黙。
そして、目の前で本を閉じるこの人の、白い指先。
文花はカップに口をつけた。珈琲は少しぬるくなっていたのに、喉を通るときだけ不思議に熱かった。
彼女はずっと、そこにいた。
その一文が、心のどこかへ静かに落ちた。
驚きより、喪失感に似ていた。どうして気づかなかったのだろう、という悔しさでもない。ただ、自分が見ていなかった時間の長さだけが、胸のあたりでひどく静かに重くなった。
店の片隅で、何かが小さく動いた。
視線を向けると、棚の下の影に黒猫がいた。
はじめて、店の中にいるのを見た。
金色の目だけが、薄暗い木の色の中でひときわはっきりしている。
驚くほど自然にそこにいて、まるで最初からこの店の一部だったみたいだった。
黒猫は文花を見るでもなく、ただ一度だけ本を読む女のほうを見て、それから静かに目を細めた。
文花は思わず息をのみ、もう一度その女を見た。
だが彼女は何も変わらず、本を閉じると、膝の上へそっと置いただけだった。
Animaがカウンターの奥からこちらを見ていた。
その視線は、たしかめるようでも、見守るようでもなく、ただ「もう見えるでしょう」と言う前の静けさを持っていた。
文花は席を立った。
それ以上近づけば、何かが壊れてしまう気がしたし、逆に、何も壊さずに持ち帰りたい気もした。
会計を済ませ、扉の前へ行く。鈴が鳴る前に、Animaの声が背中へ届いた。
「あの夏のこと、少しずつ思い出してもいいわ」
文花は振り返る。
Animaはいつもの位置にいた。けれど、その声だけが少し深かった。
「もう、ひとりではないから」
返事はできなかった。
ただ、店の奥へ目をやると、本を読む女がこちらを見ていた。見送っているのかどうかもわからないほど静かな目だった。それでも、その目はたしかに、文花を“見ていた”。
路地へ出ると、夕方の空気がやわらかく冷えていた。
細い道の先で、黒猫が立ち止まっている。呼ぶでもなく、急かすでもなく、ただ知っている顔でこちらを振り返る。
あの夏。
その言葉が、胸の奥で薄くひらく。
火の匂い。
夕暮れ。
白く揺れる花房。
そして、誰かの名前を呼ぼうとして、うまく呼べなかった自分の喉。
次の角を曲がる直前、文花は一度だけ店のほうを振り返った。
灯りのついた窓は遠く、そこにいる人の顔まではもう見えない。けれど、見えなくなったからといって、いなくなるわけではないのだと、今日はわかった気がした。
そう思った瞬間、夏の終わりみたいな、乾いた火の匂いが、どこからともなく風に混じった。

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