
その夢を、彼女は三度見た。
まだ空の色が夜に近い朝、誰もいない小さな駅のホームに、自分ひとりだけが立っている。
白い息が、薄青い空気のなかへほどけるたび、遠くの線路がかすかに光って見えた。
左手には、古い木のベンチ。
右手には、白い自動販売機。
そして少し先には、椿の花びらが二枚だけ落ちている。
夢の中の彼女は、いつも何かを待っていた。
けれど、誰を待っているのかはわからない。
ただ胸の奥だけが、不思議なほど静かで、少しだけあたたかかった。
やがて、電車の来る音ではなく、靴音がひとつ聞こえる。
振り返ると、ひとりの人が立っている。
顔はなぜか、うまく見えない。
光の中にいるみたいに、輪郭だけがやわらかくにじんでいる。
その人は、彼女を見ると、ただ静かに言うのだった。
「だいじょうぶ。ちゃんと、会えるから」
そこで、いつも夢は終わった。
目が覚めるたび、胸の奥には、言葉だけが淡く残った。
だいじょうぶ。ちゃんと、会えるから。
誰に会えるのかもわからないまま、その声だけが、朝の光みたいに心に差し込んでいた。
それからしばらくして、彼女はある町へ向かった。
引っ越し先を決めるための、小さな内見の日だった。
知らない町、知らない駅。
地図を見ても、どこか落ち着かず、心は少しだけ揺れていた。
電車を降りたとき、朝の風が頬をなでた。
顔を上げた瞬間、彼女は足を止める。
古い木のベンチ。
白い自動販売機。
ホームの端、足元に落ちた椿の花びらが二枚。
夢で見た景色が、目の前にそのままあった。
息が、うまくできなかった。
夢の中では何度も立っていたはずなのに、本当にその場所へ来てしまうと、世界がほんの少しだけ揺れて見えた。
そのとき、背後で足音がした。
振り返ると、ひとりの男性が、旅行鞄を持って立っていた。
見知らぬ人のはずなのに、なぜか心が先に知っていた。
この人だ、と。
男性は一度だけ彼女を見て、それから困ったように微笑んだ。
「あの、この町の不動産屋さんって、駅を出て右で合ってますか」
その声を聞いた瞬間、彼女の胸の奥で、夢の続きを閉じていた扉が、そっとひらいた。
夢の中で顔の見えなかった人。
光の中に立っていた人。
あの朝ごとに、たしかにここにいた人。
彼女は小さく息を吸って、頷いた。
「はい。たぶん、私もそこへ行きます」
それだけの短いやり取りだった。
けれど、それだけでじゅうぶんだった。
未来は、もっと大きな音を立てて訪れるものだと思っていた。
けれど本当は、こんなふうに静かな朝のホームで、風にまぎれるようにやってくることもあるのかもしれない。
彼と並んで改札へ向かいながら、彼女はふと、夢の中の言葉を思い出す。
だいじょうぶ。ちゃんと、会えるから。
あれは予言だったのかもしれない。
あるいは、未来のどこかにいた自分が、迷っていた今の自分へそっと渡してくれた、小さな合図だったのかもしれない。
朝の光はやわらかく、白く、あたたかかった。
はじまりというものは、こんなふうに静かで、こんなふうに確かなのだと、彼女はそのとき初めて知った。

こちらは正夢をテーマに短編作品としてご用意しました。
楽しんでいただければ幸いです。また今日もあなたに良い夢が訪れることを祈っています。

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