【連載】夢見町の案内人 ― 白藤の残夢 第十二話 白藤の残夢

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その朝、文花はひどく深く眠ったあとで目を覚ました。

夢を見ていた気もする。けれど、目が覚めたときには輪郭だけがほどけていて、何があったのかは思い出せなかった。ただ、眠る前まで胸の奥にあった硬さだけが、夜のあいだに少しずつほどけていったことはわかった。息を吸うと、空気が喉の奥までまっすぐ通る。そのことが、朝の光より先に文花を驚かせた。

枕元には、ノートが置かれていた。

古いクリーム色の表紙。擦れた角。白藤の押し模様。
昨夜と同じものなのに、朝の光を受けると、そこに残っている時間のほうがよく見えた。文花は上体を起こし、ノートの表紙へそっと触れた。紙は静かだった。けれどその静けさは、もう隠れているものの沈黙ではない。呼ばれたあとの余白に近かった。

襖の向こうから、湯の沸く音がした。

文花はノートを抱えたまま台所へ行った。母はいつものように立っていた。味噌汁の湯気が細く立ち、朝の光が流しの金具にやわらかく反射している。包丁の音も、急須の蓋を置く音も、何も変わらない。変わらないのに、そのどれもが今日は妙に近く感じられた。

母が振り向く。

「起きたのね」

「うん」

それだけ言って、文花は食卓についた。
しばらくは、味噌汁の湯気と、ご飯をよそう小さな音だけが台所にあった。窓の外では、昨夜の雨を受けた葉が風に触れるたび、かすかな擦れ音を立てている。

文花は、膝の上に置いていたノートを、静かにテーブルへ上げた。

母の手が止まる。

「これ、覚えてる?」

その声は、自分で思っていたより穏やかだった。責めるための問いではないと、たぶん母にもわかったのだろう。母はすぐには答えなかった。ただ、ノートの表紙を見つめ、それからゆっくり椅子へ腰を下ろした。

指先が、白藤の押し模様へ伸びる。けれど触れる手前で止まり、母は一度だけ目を伏せた。

「残っていたのね」

文花はうなずいた。

「ところどころ、破れてた。ギザギザのところも、きれいに切られたところもあって」

母のまぶたが、ほんのわずかに揺れた。

「……きれいに切ったのは、わたしよ」

朝の光のなかで、その言葉は必要以上に重くならなかった。長いあいだ言えずにいたものが、ようやく居場所を見つけたみたいに、静かにテーブルの上へ置かれる。

文花は何も言わないまま、母を見た。

母は続けた。

「あなたが小さいころ、あの橋の夢ばかり見ていた時期があったでしょう。夜中にうなされて、朝になると何も言わないで……でも、ノートには書いていた」
少しだけ息を継ぎ、母は湯気の向こうへ目をやった。
「忘れさせてあげるのが、いちばんいいと思ったの。書いてあるものを消してしまえば、少しずつ遠くなる気がして」

「それで、切ったの」

「ええ」

母の声はかすかだった。けれど、言い逃れをする響きではなかった。

文花はノートをひらき、欠けたページの跡へ指を置いた。子どもの自分が乱暴に破ったのだろうギザギザの切れ目。そのあとから、別の手でまっすぐに切り取られた痕。ずっと分からなかったふたつの違いが、朝の光のなかではもう曖昧にならない。

「わたしも、破ったんだと思う」

母が顔を上げる。

「こわくて、たぶん自分でも破った。そこにあるのが嫌で。でも……全部なくなるのも嫌だったんだろうね」

そう口にしてみると、不思議なくらい自然だった。子どものころの自分を責めたいわけではないし、母を責めたいわけでもなかった。ただ、それぞれがそれぞれのやり方で、同じ夜をどうにか小さくしようとしていたのだと、いまならわかる。

母はしばらく黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ肩の力を抜いて言った。

「あなたが思い出してくれて、よかった」

その言葉には、安堵も、後悔も、祈りも混じっていた。
文花はそれを聞きながら、なにかを許すというより、ようやく同じ場所へ立てた気がした。

「うん」

それだけで十分だった。

味噌汁は少しぬるくなっていた。それでも湯気は途切れず、ふたりのあいだに細く残っていた。朝食はいつもと同じように進んだ。ご飯を食べ、箸を置き、湯呑みを手に取る。ただ、その何気なさのなかに、昨夜まではなかった静けさがあった。隠すための沈黙ではなく、同じものを見たあとの沈黙だった。

食後、文花はノートを鞄へ戻し、家を出た。

夢見町の朝は、昨夜と同じ道をしているのに、まるで違って見えた。商店街の庇にはまだ雨粒が残り、白藤写真館の硝子は曇りの薄い空を映している。店先を掃く人の箒の音も、遠くで開くシャッターの音も、今日はどこかやわらかい。

白藤写真館の前を通りかかると、硝子戸の向こうで老女がこちらを見た。
文花は立ち止まらなかった。老女も外へは出てこない。
ただ、目が合ったあとで、老女はほんのわずかにうなずいた。

それだけで、もう十分だった。

文花はそのまま水鏡橋へ向かった。
朝の橋は、夜の橋よりもずっと狭く見えるのに、息はしやすかった。欄干には昨夜の湿り気がまだ少し残っていて、川面は曇った空の色を薄く映している。夜のような白い影は、もうどこにもなかった。

橋の半ばまで来たとき、文花は足を止めた。

欄干のそばに、細いものが落ちている。

拾い上げると、それは古びた栞だった。薄いクリーム色の紙に、かすれた白藤の押し模様。指先で触れると、紙の端が少しだけやわらかくなっている。見覚えのある意匠だった。本を読む女の手元にあったもの。ノートの表紙に残っていたもの。呼ばれた名前のそばに、ずっと寄り添っていたもの。

文花はそれをしばらく見つめ、それからそっとポケットへ入れた。

弔う、という言葉は浮かばなかった。
持ち帰るのだと思った。
閉じこめるためではなく、そこにいてくれたことを、自分の側で失わないために。

風が吹く。
夜よりもずっと薄い、朝の白藤の匂いが、橋の上をひとすじだけ渡っていった。

文花は欄干に手を置かなかった。
もう昨夜のように、そこへ声を置く必要はなかったからだ。
それでも胸の奥で、名前はまだ静かに生きていた。

橋を渡りきってから、文花は路地のほうへ足を向けた。

GoldenAnimaの扉を押すと、鈴がいつもより細い音で鳴った。

朝の光は、夜の灯より残酷なはずなのに、その店のなかでは何も暴かなかった。棚に並んだ本の背も、窓際の木の椅子も、磨かれたカウンターも、ただ静かにそこにある。昨日までと何ひとつ変わらないように見えるのに、文花には、その変わらなさごと少し遠くなったように思えた。

Animaは、いつもの場所に立っていた。

白いカップを手にして、湯気ののぼり方を見ている。
その姿はあまりに自然で、だからこそ、今ここにいることがひどく不思議だった。朝の光のなかで見ると、Animaの輪郭は夜よりも淡い。薄くなったというより、向こう側の気配を少しだけ通しているように見えた。

文花は、扉を閉めてから一歩だけ中へ入る。

「……来たよ」

Animaは顔を上げた。
その目には、驚きも、問いもなかった。ただ、ずっと前からその一言を待っていた人の静けさだけがあった。

「ええ」

それだけ言って、Animaはカップをひとつ置く。
白い湯気が、朝の光に溶けるみたいに細くのぼった。

文花は席についた。
窓際ではない、いつもの席でもない、カウンターの近く。
今日は、少しだけ近くで話したかった。

カップに口をつける。
熱はやわらかく、喉の奥へまっすぐ届く。昨夜までそこに引っかかっていたものが、完全ではなくても、もう息を塞ぐことはないのだとわかった。

しばらく、ふたりとも何も言わなかった。

沈黙は重くない。
言葉が足りないのではなく、もう急いで何かを足さなくてもいい静けさだった。

やがて文花は、ポケットのなかの栞にそっと触れた。
薄い紙の感触が、指先の内側に静かに残る。

「……澪ちゃんのこと、ちゃんと呼べたよ」

その言葉に、Animaはすぐには答えなかった。
ただ、カップの取っ手に添えた指先を少しだけ動かして、それからごく静かに頷く。

「そう」

短い返事だった。
けれど、その一音のなかに、長い時間がきちんと畳まれている気がした。

文花は、Animaを見た。
訊きたいことが消えたわけではない。どうしてこの店があったのか。どうしてAnimaは知っていたのか。どうして、ずっとここで待っていたのか。
けれど、もうそれを言葉にする必要はない気がした。

呼ばれなかった名前のそばには、呼ばれなかったまま残るものがある。
けれど、ひとたび声にされたものは、すべてを説明しなくても、そこから少しずつほどけていく。

Animaは、文花の視線をまっすぐ受けとめて、ほんの少しだけ口元をやわらげた。

「呼ばれた名前のそばは、ね、少しだけあたたかいの」

店のなかはしんとしていた。
その言葉だけが、朝の光のなかで沈まずに残る。

文花は返事の代わりに、小さく息を吐いた。
たしかにそうなのだと思う。橋の上で名前を呼んだあとの夜も、母の前でノートをひらいた朝も、自分のなかにはほんの少しだけ、あたたかい場所ができていた。

「母がね、ページを切ったって言ってた」

Animaは驚かなかった。

「そう」

また同じ短い返事。けれど今度のそれには、知っていたという響きより、ようやくそこへ辿りついたことへの静かな肯定があった。

「忘れさせるためだったって。わたしも、たぶん自分で破ってた」
文花はカップの底を見つめた。
「誰も悪くなかった、とは言えないのかもしれないけど……でも、みんな、そうするしかなかったんだと思う」

Animaは少しだけ目を伏せ、それから言った。

「人は、ときどき、守ることと隠すことを同じ手でしてしまうの」

その声音はやわらかいというより、古い本の頁をひらくときの慎重さに似ていた。

「でも、あなたはちゃんと戻ってきたわ」

文花は顔を上げた。
戻ってきた、という言葉が、今度は橋からでも、夢からでもなく、自分の時間のほうへ向けられているのがわかった。

カップの底が見えるころ、店の外の光はもうすっかり朝になっていた。
町は動きはじめているはずなのに、この店だけは、まだ夜と朝のあわいに立っているみたいだった。

文花は椅子を引き、立ち上がる。

「ありがとう」

その一言に、Animaは笑ったようにも見えたし、ただ光の加減でそう見えただけのようにも思えた。

扉の前まで行く。
振り返ると、Animaはカウンターの向こうで、いつものように立っている。
それなのに、その姿はどこか、昨夜までより遠かった。近づけないのではなく、もう追いかけなくていい遠さだった。

文花が何も言わずに見つめていると、Animaは静かに言った。

「またいらっしゃい。……来なくても、いいのよ」

その声は、引き止めるためのものではなかった。
待つことの重さを、ようやく手放した人の声だった。

文花は、少しだけ笑う。

「うん」

それで十分だった。

扉を開ける。
外の空気は、もう夜の名残をほとんど持っていなかった。白藤の香りも、ごく薄く、朝のなかへほどけている。路地の先で、黒猫が一度だけ立ち止まり、こちらを振り向いた。金色の目が、朝の光のなかでは夜ほど強くは光らない。けれど確かに、そこにあった。

次の瞬間、猫は塀の向こうへ身を翻し、もう戻らなかった。

文花はしばらくその先を見ていたが、やがて歩き出した。

町の景色は変わらない。
商店街の庇、白藤写真館の古い硝子、水鏡橋へ続く道。どれも昨日までと同じ形をしている。けれど、そのどこにも、もう“忘れたことにされたもの”の沈黙はなかった。代わりに、名前を呼ばれたあとの静かな余白だけが、朝の光のなかへやわらかく残っていた。

家の前で、文花はもう一度ポケットの栞に触れた。

薄い紙の感触はたしかで、軽いのに、なくならない。
持ち帰るというのは、閉じこめることではなく、そこにいてくれたことを、自分の側で引き受けることなのだと、ようやくわかる。

玄関に手をかける。
そのとき、風がひと呼吸ぶんだけ遅れて吹いた。

白藤の匂いが、ごくかすかに、髪を揺らす。

文花は振り返らなかった。
もう振り返らなくても、そこにあったものを見失わずにいられる気がしたからだ。

そして、静かに戸を開ける。

誰かに呼ばれた名前は、夢のなかでも、たしかに息をしている。

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