朝から、空は薄い灰色だった。
昨夜まで鼻の奥に残っていた夏の火の匂いは、今日はもう遠く、かわりに湿った土と、乾ききらない木の匂いが窓の隙間から入ってきていた。
文花はしばらく布団の上に座ったまま、指先でノートの表紙をなぞった。白藤の押し模様は、見る角度によって浮いたり沈んだりした。
台所では、母が湯を沸かしていた。
薬缶の蓋がかすかに鳴り、火を弱める音がして、それから湯呑みの触れあう小さな音が続いた。
「今日、また出るの」
背を向けたまま、母が言った。
「うん。少しだけ」
文花が答えると、母は急須に湯を落とし、しばらくそのまま手を離さなかった。立ちのぼる湯気の向こうで、横顔だけが白く曇って見えた。
「雨になるかもしれないから、早めに帰ってきなさい」
ただそれだけだった。けれど、そこには言わないでいる言葉がいくつも重なっている気がした。
文花は午前の町を歩いた。
夢見町は静かな町だったが、今日はその静けさがいつもより少しだけ厚く感じられた。
店先に吊るされた風鈴は鳴らず、商店街の古い庇には昨日の湿気が残っていた。
通り過ぎる人たちの声も、どこか布をかぶせたように低かった。
白藤写真館の硝子戸を押すと、乾いた鈴の音がひとつ鳴った。
店の中は変わらず、古い紙と薬品の名残、それに木の床の匂いがした。店主の老女は、帳場の奥で眼鏡をかけたまま顔を上げた。
「あら、また来たのね」
文花は頷き、先日見せてもらった写真のことをもう一度尋ねた。
老女は少し考えるように目を伏せ、それから無言で奥の棚へ向かった。戻っ
てきた手には、薄い杉の箱があった。
蓋の角が長い時間で丸くなり、何度も開け閉めされた跡が残っていた。
「整理しないまま、しまっていたものよ」
箱の中には何枚もの古い写真が重ねてあった。
橋。
川辺。
祭りの提灯。
子どもたちの後ろ姿。
どれも少しずつ褪せていて、そこに映る季節だけが取り残されているようだった。
そのうちの一枚を、文花は思わず指先で押さえた。
水鏡橋のたもとで撮られた写真だった。白っぽい夏の光の中に、数人の子どもが立っている。端のほう、画面ぎりぎりに、白い服の袖だけが覗いていた。けれどその袖の続きは、まっすぐに切り取られていた。
ノートの、あの切り口と同じだった。
「……これ」
声がひどく小さくなった。
老女は文花の視線を追い、短く息をついた。
「それは、私が切ったの」
文花は顔を上げた。
「どうして」
老女はすぐには答えなかった。指先で写真の端を撫で、それから眼鏡を外して畳んだ。
「見えてしまうと、誰かがそこばかり見るでしょう。あの頃は、そういう見方をされるのがいちばんよくないと、みんな思っていたの」
叱るような口ぶりではなかった。ただ、昔の曇り空を思い出している人の声だった。
「でも、消えたわけじゃないのよ。切っても、いなくなるわけじゃないから」
文花は写真の白い切り口を見つめた。隠したかったのか、守りたかったのか、そのどちらとも違うのか、まだ分からなかった。ただ、何かを見えない形にしておけば傷つけずに済むと、大人たちは信じていたのかもしれないと思った。
写真館を出たあと、文花は商店街の外れまで歩いた。
空はさらに低くなり、町の輪郭が少しだけぼやけていた。
道端の植え込みには白藤の蔓が細く絡みついていて、名残の花房が雨を待つように揺れていた。
忘れることと、忘れたことにすることは、きっと違う。
その違いを、この町の人たちは知っていたのだろう。知っていて、言わなかったのだ。言えば誰かの孤独が露わになると、分かっていたから。
気がつくと、足はGoldenAnimaへ向かっていた。
扉を開けると、珈琲の匂いが胸の奥まで降りてきた。窓際の男は今日もいて、本を読む女も、静かに頁をめくっていた。店の中だけ、曇り空から切り離されたように灯りが落ち着いていた。
Animaはカウンターの向こうで白いカップを拭いていたが、文花の顔を見ると、その手を止めた。
「少し、遠くまで行ってきた顔ね」
文花は曖昧に笑って、いつもの席に座った。ノートは鞄の中に入れたままだった。それでもAnimaは、持ってきたものまで見えているようだった。
しばらくして置かれた紅茶の湯気を見つめながら、文花はぽつりと訊いた。
「黙っていることって、守ることになるのかな」
Animaはすぐには答えなかった。細いスプーンを皿の上に置き、その音が消えてから口をひらいた。
「なることもあるわ」
文花は顔を上げた。
「でもね」
Animaは文花をまっすぐ見た。その目はいつものように静かだったのに、今日は逃がさない温度があった。
「忘れることと、忘れたことにすることは、似ているようで、ぜんぜん違うのよ」
その言葉は、店の灯りの中で沈まずに残った。
「言わないでいた人たちは、きっと誰かを責めたくなかったの。でも、責めなかったことと、抱きしめられたことは、同じじゃないの」
文花の喉が、わずかに熱を持った。泣きたくなったわけではない。ただ、今まで町じゅうに広がっていた静けさの正体に、ようやく手が触れた気がした。
それは冷たい無関心ではなく、言葉の形になれなかった寂しさだった。
会計を済ませ、扉の前まで来たとき、本を読んでいた女がふと顔を上げた。あの、白藤の栞を持っていた人だった。視線が重なり、彼女はほんの少しだけ唇を動かした。
「お帰りなさい」
小さな声だった。
けれどその一言は、今日いちばんまっすぐに文花へ届いた。
外に出ると、雨はまだ降っていなかった。空は暗く、町は何も言わないままだった。それでも文花には、もうただ黙っているようには見えなかった。
忘れたのではない。忘れたことにして、そこに置いてきたものがある。
町にも。
母にも。
そして、たぶん、自分にも。
文花は鞄の中のノートにそっと触れた。紙の角は静かで、まだ名前を呼ばれるのを待っているようだった。
路地の先で、黒猫の金色の目が一度だけ光った。
その光はすぐに見えなくなったが、文花はもう目を逸らさなかった。

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