

夢の中にあらわれるパンは、日々を支える糧であると同時に、誰かと食べるよろこびや、身近な人への愛情を映すものともいわれています。
とくに印象に残るパンの夢は、暮らしのぬくもりや、まだ言葉になっていない気持ちを、そっと手元に返してくれることがあるのかもしれません。
今回はそんな「パンの夢」をもとに、ひとつの掌編を書きました。
朝の途中で立ち止まってしまうような日々のなかで、ふたつ目のパンが静かに運んでくるものを、やわらかく受け取っていただけたら嬉しいです。
最近、朝がうまく始まらない。
お腹は空いているのに、食べるということだけが、妙によそよそしい日が続いていた。
理由はたぶん、わかっていた。
同じ部署の千歳さんが、来月で異動になる。
それを知ってから、朝の支度のどこかが、うまくはまらなくなった。
ある夜、めずらしく夢を見た。
四角い木のテーブルの上に、丸いパンがふたつ置かれていた。
焼きたてらしく、表面にかすかなつやがあり、ちぎる前からやわらかな匂いがしていた。
向かいには誰かが座っている気配があった。
顔は見えない。
ただ、こちらが食べはじめるのを、ゆっくり待っている。
そんな静けさだけがあった。
ふたつ買いなさい、と誰かが言った気がした。
命令ではなく、忘れていたことを思い出させるような声だった。
朝、目が覚めても、その声はまだ少し残っていた。
通勤の途中、駅前の小さなパン屋の前で足が止まった。
ガラスケースの中に、夢に出てきたのとよく似た丸パンが並んでいた。
ふたつ、ください。
そう言ってから、自分でも少し驚いた。
ひとつ、で済むはずだった。
紙袋はあたたかく、抱えると朝の空気が少しやわらかくなった。
オフィスに着いて、自分の机の引き出しに紙袋を入れる。
ひとつは昼に食べるつもりで、もうひとつは――、
そこから先は、自分でもよくわからなかった。
午前中はいつも通り過ぎた。
千歳さんは隣の島で電話をしていて、ときどき笑い声がこちらまで届いた。
その声を聞くたび、引き出しの中のパンのことを思い出した。
昼休み、ひとつ目をゆっくり食べた。
甘くもしょっぱくもない、ただやさしい味がした。
こういう味のものを、最近、ちゃんと噛んでいなかった気がした。
午後、千歳さんが小さくため息をついた。
書類の山を前に、肩が少し落ちている。
「お昼、食べそびれちゃって」
千歳さんの独り言は、誰に向けたものでもなかった。
それでも、私はなぜか、引き出しを開けてしまった。
「あの、よかったら」
紙袋を差し出すと、千歳さんは目を丸くした。
「えっ、いいの?」
「朝、ふたつ買っちゃって」
ほんとうのことを言ったつもりだった。
ただ、なぜふたつ買ったのかは、自分にも説明できなかった。
千歳さんは紙袋を受け取って、中をのぞきこみ、
「丸パンだ」
と少しだけ笑った。
その笑い方を、私はずっと覚えておくのだろうな、と思った。
夕方、退勤の時間になっても、千歳さんはなかなか席を立たなかった。
机の上に、空になった紙袋がきれいにたたんで置かれている。
エレベーターの前で、千歳さんがこちらを振り返った。
「あのパン、すごくおいしかった」
うん、と私は短く返した。
ほかの言葉が、うまく出てこなかった。
「……明日も、もしふたつ買ってきたら」
千歳さんはそこでいったん言葉を切って、少し笑った。
「ひとつ、もらってもいい?」
私はうなずいた。
たぶん、うなずきすぎたと思う。
エレベーターの扉が閉まったあと、廊下にひとり残って、私はしばらく動けなかった。
胸のあたりが、朝のパンよりずっとあたたかかった。
帰り道、駅前のパン屋の前をもう一度通った。
明日の分のパンは、まだそこにはなかった。
それでも、明日の朝もきっとここに寄るのだろう、と思った。
ふたつ目のパンの行き先が、すこしだけ、決まりかけていた。


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