
夢の中の私は、駅の長いエスカレーターに乗っていた。
上りのエスカレーター。手すりのゴムが、少しだけ温かい。
隣の下りのエスカレーターに、見覚えのある背中が見えた。紺色のコート。少しだけ寝ぐせのついた髪。朔くんだった。
「朔くん」
呼びかけると、朔くんがこちらを振り向いた。何か言おうとして口を開く。けれど、その声が届く前に、私たちはすれ違ってしまう。
上りきったと思ったら、私はまた下の階にいて、同じ上りのエスカレーターに乗っていた。そして隣の下りには、また朔くんがいる。
何度くり返しても、同じだった。手を伸ばせば届きそうなのに、二人のあいだでは、上りと下りが逆向きに流れ続けていた。
そのとき、ガタン、と音がして、エスカレーターが止まった。
――目が覚めると、目覚まし時計が鳴る五分前だった。
朔くんは、大学のゼミで一緒だった人だ。卒業してから三年、連絡はほとんど取っていない。
それなのに半年ほど前から、朝の駅で朔くんを見かけるようになった。私は改札へ向かう上りのエスカレーター、朔くんはホームへ下りていく下りのエスカレーター。毎朝ほんの一瞬、隣り合う手すり越しにすれ違う。
最初に気づいたとき、朔くんは驚いた顔をして、小さく手を上げてくれた。私も会釈を返した。それからは、それが毎朝のあいさつになった。
会釈だけの半年。話しかけたいと思ったことは何度もある。けれど、エスカレーターは止まってくれない。私はただ運ばれていくだけで、朔くんの姿は、いつもすぐに見えなくなった。
「エスカレーターの、立ち止まって乗りましょうってアナウンス、最近よく聞くよね」
その日の昼休み、同僚の奈々が言った。
「急いで歩くと危ないからって。でも、朝の通勤で立ち止まってたら、焦らない?」
「……うん。ちょっと焦る」
焦る、というより、もどかしいのだ。運ばれるだけで、自分からは何もしていない気がして。
次の日の朝、駅に着くと、上りのエスカレーターの前に黄色い柵が置かれていた。
「点検中のため停止しております。お手数ですが階段をご利用ください」
夢と同じだった。エスカレーターが止まっている。
私は、隣の階段を上りはじめた。一段、また一段。ふだんは運ばれていくだけの高さを、自分の足で上っていく。思っていたより、ずっと長い。
階段の真ん中あたりの踊り場で、私は足を止めた。
下りのエスカレーターも止まっていて、上から、階段を下りてくる人たちの足音が聞こえる。その中に、紺色のコートが見えた。
「……朔くん」
今度は、ちゃんと声が届いた。朔くんが足を止めて、こちらを見る。私たちは、踊り場で向かい合った。止まった手すりも、逆向きの流れもない。同じ高さに、ふたりで立っていた。
「おはよう。……止まってると、話せるんだね」
朔くんが、少し照れたように笑った。
「いつもさ、すれ違う一瞬に何か言おうと思うんだけど、言い終わる前に運ばれちゃって」
「私も」
思わず笑ってしまった。半年間、同じことを考えていたのだ。上りと下りで、別々の方向に運ばれながら。
「あの……今度、ちゃんと話しませんか。階段の上か、下か、どっちかで」
言ってから、自分の声が少し震えていたことに気づいた。
朔くんは、腕時計をちらりと見て、それから言った。
「じゃあ、今日の帰り。この踊り場で待ち合わせっていうのは?」
「エスカレーター、夕方には動いてるかもしれないよ」
「そしたら、動いてないほうの階段で」
電車の到着を知らせるベルが鳴って、朔くんは「じゃあ、あとで」と手を振り、階段を下りていった。
私は残りの階段を、自分の足で上った。息が少し上がって、頬が熱い。けれど、運ばれていた毎朝よりも、ずっと確かに、前に進んでいる気がした。
夢の中で止まったエスカレーターは、終わりのしるしではなかったのかもしれない。流れが止まったから、私はやっと、自分の足で、あの人のいる高さまで歩いていけたのだ。
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エスカレーターの夢が持つ本来の意味についてはこちらの夢占い記事で、「運ばれる」感覚をめぐる心理学や、「自動階段」と呼ばれた日本のエスカレーターの歴史、東西で違う立ち位置の文化についてはこちらの夢ことほぎ記事で、それぞれ詳しく解説しています。
