
夢の中で澄江は子牛を担いでいた。
生まれたばかりの茶色い子牛だった。細い脚をだらりと垂らし、澄江の肩の上で静かに鼻を鳴らしている。見覚えのない草原の坂道を、澄江はその子牛を担いで一歩ずつのぼっていた。
重くはなかった。七十二歳の肩でもまだなんとか運べる重さだった。
坂のてっぺんが見えたところで目が覚めた。
◇
「おばあちゃん、来年の春、一緒に山に登ろうよ」
孫の陽太がそう言ったのは、夫の十三回忌の法要が終わった日の夜だった。
山というのは、町の裏手にある標高六百メートルほどの低い山のことだ。夫は毎年その山の頂上で初日の出を見るのを楽しみにしていた。陽太も小さいころは、よく祖父に手を引かれて登っていた。
「無理よ。ひざの手術をしてから、駅の階段だってやっとなんだから」
「だから今から準備するんだって。半年あればいけるよ」
大学でスポーツ科学を学んでいる陽太は、本気だった。翌週には公民館でやっている高齢者向けの筋トレ教室の申込書を持ってきた。
澄江は申込書をしばらく食卓の上に置いたままにしていた。夫が亡くなってから、遠くへ出かけることはほとんどなくなった。買い物と病院と、たまに友人とお茶をするくらいだ。それで十分だと思っていた。
けれど仏壇の夫の写真を見ていると、頂上で朝日に目を細めていた横顔がふと浮かんだ。澄江は老眼鏡をかけて申込書に名前を書いた。
その夜も、子牛の夢を見た。肩の上の子牛は、前の晩より少しだけ大きくなっている気がした。
◇
筋トレ教室は週に二回だった。
集まっているのは、澄江と同じくらいの年の人ばかりだ。指導してくれるのは、市の健康センターから来ている若い女性で、いつもよく通る声で笑っていた。
最初の日にやったのは、椅子に座って立ち上がるだけの運動だった。十回くり返すと、太ももが熱くなった。
「明日、筋肉痛になったら成功ですよ。筋肉は、痛んで休んで、前より少し強くなるんです」
翌朝、澄江は本当に階段の上り下りに苦労した。それでもなぜか悪い気はしなかった。
二回目の教室で、先生はこうも言った。
「いきなり重いものを持たなくていいんです。昨日できた回数に、一回だけ足す。それで十分なんですよ」
一回だけなら、と澄江は思った。それならなんとかなりそうな気がした。
教室に通いはじめてから、子牛の夢は毎晩のように見るようになった。子牛は日ごとに大きくなっていく。脚が太くなり、背中が広くなり、肩にずっしりと重さがかかる。それでも不思議と担げないということはなかった。澄江の足も、少しずつ坂道に慣れていくようだった。
◇
秋が過ぎ、冬になった。
教室では、ゴムバンドを引っぱる運動や、壁に手をついてする腕立て伏せも加わった。隣の席の米田さんは八十歳で、澄江よりずっと軽々とメニューをこなした。
「若いころはね、村の神社で力石を持ち上げたもんだよ」
米田さんはそう言って笑った。どこまで本当なのかはわからなかった。
十二月のある日、澄江は駅の階段を手すりにつかまらずに上りきった。上りきってから、そのことに気づいた。ホームで電車を待ちながら、澄江は自分の太ももをそっと手のひらで押してみた。少しだけ硬くなっている気がした。
一月の終わり、澄江はひどい風邪をひいて、二週間教室を休んだ。
その間、夢の中の牛は急に重くなった。もう子牛とは呼べないほど大きくなっていて、澄江は坂の途中で膝をついた。担ぎなおそうとしても、持ち上がらない。牛は澄江の背中で、困ったように鼻を鳴らしていた。
目が覚めると、枕が少し濡れていた。
もう無理なのかもしれない。そう思った朝、陽太から短いメッセージが届いた。
「休むのもトレーニングのうち。治ったら、また一回目からでいいよ」
◇
二月の半ば、澄江は教室に戻った。
椅子からの立ち上がりは、また十回からやりなおした。米田さんが「おかえり」と言って、自分の水筒のお茶を分けてくれた。
その夜の夢で、澄江は坂の途中に座りこんでいる牛のそばに立っていた。
澄江はしゃがんで、もう一度牛を担ごうとした。そのとき、牛がゆっくりと自分の脚で立ち上がった。そして澄江の顔をちらりと見ると、坂の上に向かって、一歩、また一歩と歩きはじめた。
澄江はその隣を並んで歩いた。
◇

四月の最初の日曜日、澄江は陽太と一緒に山に登った。
休み休み、三時間かかった。最後の急な坂では、陽太が後ろからそっと背中に手を添えてくれた。
頂上に着くと、町が小さく見えた。夫が毎年見ていた景色だった。
澄江は夫がよく言っていたことを思い出した。山は一歩ずつしか登れない。だから、一歩ずつなら、誰でも登れる。若いころはただの口ぐせだと思って聞き流していた言葉だった。
「来年は、初日の出を見に来ようか」
陽太が言った。澄江はうなずくかわりに、太ももを軽くたたいてみせた。
その夜、澄江は久しぶりに夢を見た。
草原の坂のてっぺんで、大きな茶色い牛が、のんびりと草を食んでいた。肩の上は軽かった。澄江は牛の隣に腰をおろし、坂の下から吹いてくる風に目を細めた。
それきり、牛を担ぐ夢は見ていない。
この夢の意味は → 【夢占い】筋トレの夢
なぜこの夢を見るのか → 【夢ことほぎ】筋トレの夢

