

結婚を前にした春、彼女は塾で小テストを受ける夢を繰り返し見る。
書いた答えは次々と消え、返された答案には、赤字でひとことだけ残される。
――あなたの答えは、まだあなたのものになっていません。
その夢は、いつも小テストから始まった。
私は塾の教室で、窓際から二列目の席に座っている。
窓は閉まっているのに、なぜかカーテンの裾だけが、ときどきやわらかく揺れる。
教室の前には白いボードがあり、黒いマーカーで日付と科目が書かれている。日付は読めるのに、何年なのかだけが曖昧だった。
試験時間は十分。問題は五問。
どれも難しくない。少なくとも、夢の中の私はそう思っている。
一問目から順に解いていく。
式を書く。言葉を入れる。空欄を埋める。手は迷わない。
けれど三問目を書き終えたあたりで、ふと気づく。
最初に書いたはずの答えが、薄くなっている。
鉛筆の跡が、消しゴムをかけたみたいに白んで、紙の目に沈んでいく。
慌ててなぞり直しても、その下からまた文字が逃げる。
四問目に手をつけるころには、一問目はもうほとんど読めない。
隣の席の子は静かに紙をめくっている。
前の列では、誰かがもう答案を伏せた。
教壇に立つ講師は、こちらを見ないまま「あと三分」と告げる。
私は急いで書く。
自分の字なのに、書いたそばから自分のものではなくなっていく。最後の一問の途中で、チャイムが鳴る。
回収された答案は、いつも次の日に返される。
紙の右上に、赤字でひとことだけ書いてある。
あなたの答えは、まだあなたのものになっていません
点数はない。丸も、バツも、訂正もない。
その一文だけが、毎回同じ筆圧で、同じ傾きで残っている。
そこで目が覚める。
最初に見たのは、三月の終わりだった。
冷蔵庫のモーター音が、まだ暗い部屋に低く響いていた。
枕元のスマートフォンを取ると、六時十二分。
アラームの鳴る八分前だった。
短い夢ではないのに、目が覚めたあとの現実は、ひどく何事もなかった顔をしている。
洗面台の前で歯を磨きながら、私は夢のことを考えないようにした。
こういう夢は、気にすると続く。
昔からそうだった。鏡の中の自分に、今日はプレゼンでしょう、とだけ言い聞かせて、髪を結んだ。
私は企画会社で働いている。三十四歳。
仕事は嫌いではない。人前で話すのも苦手ではないし、資料を整えるのはむしろ得意なほうだ。何を求められているかを察して、それらしい形にまとめることにも慣れていた。
たぶん、ずっとそうやってきた。
親が安心する進路。
先生に褒められやすい態度。
面接で感じのいい受け答え。
恋人が安心する返事。
正解はたいてい、選ぶ前から見えていた。
会社に着いて最初の会議室へ入ると、モニターの接続がうまくいかず、少しだけ時間が押した。後輩が焦ってケーブルを差し替えている横で、私は鞄から資料を出す。
そのとき、一番上のメモ用紙に赤い文字が見えた。
まだあなたのものになっていません
息が止まりかけた。
紙を裏返す。
誰かが使った裏紙ではない。今朝、自分で印刷した会議メモだった。赤字なんて、あるはずがない。もう一度見ると、そこには何も書かれていなかった。
白い余白があるだけで、さっきまで確かにあったはずの筆跡は、最初からなかったみたいに消えている。
「先輩、大丈夫ですか」
後輩にそう言われ、私は少し笑って「寝不足かも」と答えた。
それで済む顔ができることに、ほっとした。
午後、恋人からメッセージが来た。
週末、式場見学、やっぱり予約しておいたよ。たぶん気に入ると思う。
私はその画面を見たまま、すぐには返事ができなかった。
彼はやさしい。穏やかで、誠実で、少し気が早い。
私の曖昧さを「慎重」と呼んでくれる人でもある。
結婚の話が出てから、もう半年が過ぎていた。年齢のことを考えれば、迷ってばかりもいられない。周囲もだいたい、そういう顔をする。
悪い話ではない。
むしろ、ちゃんとした話だと思う。
ちゃんとした。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、胸の奥がかすかに冷えた。
その日の帰り道、駅ビルの文具店で赤ペンを一本買った。
理由はない。
黒インクの替え芯だけ買うつもりだったのに、レジの前で気づけば手に取っていた。
透明な軸の中に、赤い芯がまっすぐ通っている。安いペンだった。
家に帰って鞄を置き、食卓の上にある式場のパンフレットを見る。
昨日、彼が持ってきたものだ。
白いテーブルクロスの上に、金色の文字が上品に浮いている。
ページを開けば、やわらかな光のチャペル、並んだ花、笑っている新郎新婦。
どれもきれいだった。きれいで、少し遠かった。
私は無意識に、昼間買った赤ペンを手に取る。
そしてパンフレットの余白に何か書こうとして、止まった。
「高そう」
「母が好きそう」
「写真映えしそう」
そういう言葉ならいくらでも浮かぶ。
けれど、どれも私の言葉ではない気がした。
その夜の夢では、教室の空気が少し違っていた。
いつもより静かで、咳をする人もいない。
問題用紙をめくる音だけが、小さく、何度も響いていた。
私はまた解答欄を埋める。
今度こそ、と強く書く。ペン先が紙に食い込み、文字は前より濃い。
なのに、消える速度も前より速い。一問目を書き終えるころには、もう一問目のはじめが白くなり、二問目に入るころには、一問目全体がうすい擦り傷のような跡になる。
私は顔を上げた。
教壇の講師が、初めてこちらを見ていた。
男なのか女なのかわからない。年齢も見えない。
白いシャツの袖口だけがやけに明るく、顔の中心はぼんやり影になっている。講師は何も言わなかった。
ただ、教卓の上に積んだ答案用紙を指先でそろえてから、私の席に向かって、静かに赤ペンを一本置いた。
見おぼえのある、透明な軸の、安いペンだった。
自分の答えで書いてください
今度は右上ではなく、問題用紙の余白にそう書いてあった。
私はペンを取ろうとして、目が覚めた。
喉が渇いていた。
心臓の音が、寝室の静けさの中ではっきりしていた。枕元のスマートフォンには、彼からメッセージがもうひとつ届いている。
無理にとは言わないけど、そろそろ決めたいね
私はそれを読んで、すぐに返事を打った。
うん、ありがとう。私もそう思う。
そこまで書いて、指が止まった。
私もそう思う。
本当に?
送信せず、画面を閉じる。
暗くなった液晶に、自分の顔がぼんやり映る。
疲れているようにも見えるし、別に普通にも見えた。
こういうとき、人はたいてい「考えすぎ」と言ってやり過ごすのだろうと思った。私もそうしてきた。今日もそうすれば済むのかもしれない。
でも、テーブルの上のパンフレットの余白には、昨夜のまま、赤ペンで書きかけた跡が残っていた。文字にはなっていない。
ただ、書き出す前に少し迷った筆圧だけが、白い紙に浅く食い込んでいる。
土曜日、私は彼と式場見学へ向かった。
春先の駅前はひどく明るく、通りには同じような服を着た人たちが歩いていた。
彼は機嫌がよく、途中で飲んだコーヒーのことや、会場の料理が評判らしいことを話した。
私は相槌を打ちながら、たぶんうまく笑っていたと思う。
実際、彼の話に嫌なところはひとつもなかった。
案内されたチャペルは、写真で見たより静かだった。
白い花。白い壁。白い椅子。
光まで白かった。
スタッフの女性が「こちらで誓いの言葉を」と説明しながら、小さな見本カードを差し出した。文例が印刷されていて、最後の一行だけ空欄になっている。
「おふたりらしい言葉をご記入いただけます」と彼女は笑った。
私はその空欄を見たまま、しばらく動けなかった。
紙は小さい。
なのに、夢の答案用紙と同じ色をしていた。
「どうしました?」
彼が言う。
「顔色、悪いよ」
そのとき初めて、私は、ずっと“正しい返事”を探していたのだとわかった。彼を傷つけない言い方。親をがっかりさせない順番。年齢に見合った決断。きれいに納得される説明。
そういう答えばかり選んできて、たぶん大きく間違えたことはない。
でも、今目の前の白い空欄に書くべきことだけは、どこにも見つからなかった。
スタッフが気を利かせて、少し席を外した。
彼は困ったように笑っていたが、責める顔はしなかった。
私は鞄の中から、あの赤ペンを取り出した。
なぜ持ってきていたのか、自分でもわからない。透明な軸の中で赤い芯だけが、細く光っている。
カードの空欄に、私はゆっくりと書いた。
少し考える時間がほしいです
それを書いた瞬間、胸の奥で何かがきしんだ。
崩れたのか、ほどけたのかはわからなかった。
ただ、たしかに自分の字だった。
彼はしばらくそのカードを見てから、静かに息を吐いた。
怒る前の沈黙ではなかった。驚きと、理解しようとする時間の沈黙だった。
「……そっか」
それだけ言った。
やさしい声だった。だからこそ、私は少し泣きたくなった。責められるより、ずっと逃げ場がなかった。
その夜、私はまた教室にいた。
小テストはもう始まっている。窓際から二列目。白いボード。十分。五問。
いつもと同じはずなのに、問題用紙には何も印刷されていなかった。上から下まで、まっさらな白紙だった。
教壇の講師は、今夜も顔がよく見えない。
けれど、もう怖くはなかった。
講師は答案を裏返し、私の机の上に置く。
赤字はない。
指示もない。
ただ、透明な軸の赤ペンだけが、紙の横にそろえて置かれている。
教室のあちこちから、筆記音が聞こえる。ほかの生徒には、それぞれの問題が見えているのかもしれない。私だけが白紙を前にしているのかもしれなかった。
でも、もう急がなかった。
最初の一行を書くまでに、ずいぶん時間がかかった。
何を書いても正解にはならない気がしたし、間違いになる気もした。
それでも、紙の上にペン先を置く。
インクは消えなかった。
私はそこに、自分の名前を書いた。
それから少し考えて、二行目に短い文を続けた。
まだわからない、と答えるところから始めます
書き終えた字は、最後までそこに残っていた。
チャイムは鳴らなかった。
代わりに、閉じていた窓がどこかで小さく軋み、夜の匂いが教室に入ってきた。カーテンの裾が、一度だけやわらかく揺れる。
講師は採点しなかった。
ただ教壇に立ったまま、私の書いた紙を見下ろしていた。
その視線が、許可なのか採点なのか、最後までわからなかった。
朝、目が覚めたとき、寝室にはいつもの光があった。
劇的に何かが変わった感じはしなかった。スマートフォンには彼から短いメッセージが届いていて、今日は話せる? とだけあった。
私はすぐには返事を打たず、いったん起き上がった。
テーブルの上に、式場の見本カードがある。
昨日、自分で書いた赤い文字が、ちゃんと残っている。
私はそれを見てから、スマートフォンを取り、ゆっくりと返事を書きはじめた。

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