
夢の中で、健人は、白い着物の女と並んで歩いていた。
夜の川べり。二人の後ろ姿が、街灯の下を遠ざかっていく。女の顔は見えない。ただ、健人が、私には見せたことのないような顔で笑っているのだけが分かった。
追いかけようとしても、足が動かない。
女の頭のあたりで、小さな火が三つ、ゆらゆらと揺れていた。
――目が覚めると、スマホの画面が光っていた。健人からの返信は、まだなかった。
この夢を見るのは、もう三度目だった。
健人と付き合って二年。最近、彼の返信が遅くなった。夜に電話をかけても、出ないことがある。土曜日の約束も、二回続けて「ごめん、その日は無理」と断られた。
理由を聞くと、「ちょっと用事」としか言わない。
私は、彼のSNSを何度も見るようになった。誰の投稿に反応しているのか。メッセージの既読がつく時間は、何時なのか。見れば見るほど、どの小さなことも、悪い意味に思えてくる。
先週、ついに言ってしまった。
「昨日の夜、誰といたの」
自分でも驚くほど、とがった声だった。健人は、少し黙ってから、「一人だよ」と答えた。その疲れたような声が、かえって私の不安をふくらませた。
その週の金曜日の夜、健人の友人が投稿した写真が、目に飛びこんできた。
居酒屋のカウンター。笑っている友人たちの奥に、健人の横顔が小さく写っている。そして、その隣には、髪の長い女性が座っていた。
心臓が、どくんと鳴った。
その日、健人は「ちょっと用事」と言っていた。用事って、これのことだったの。私は、写真を何度も拡大した。二人の距離は近いのか、遠いのか。女性は、健人のほうを向いているのか。見れば見るほど、すべてが、悪い答えを指しているように思えた。
気がつくと、私は、長いメッセージを打っていた。
「昨日の写真見た。隣にいた人、誰? 用事って、嘘だったの? 最近ずっとおかしいよね」
送信ボタンの上で、指が止まった。画面に並んだ言葉は、自分が書いたとは思えないほど、とがっていた。
私は、それを全部消した。けれど、胸のざわつきは消えなかった。その夜は、ほとんど眠れなかった。
「紗季、最近、顔色が悪いよ」
大学時代からの友人の千夏が、心配そうに言った。千夏は、趣味で能のお稽古を続けている。
「今度の日曜、お師匠さんの舞台があるの。気分転換に、見においでよ」
演目は、『鉄輪』だった。
暗い舞台に、一人の女が現れる。夫に捨てられ、新しい妻のもとへ去られた女だ。女は、恨みを晴らすために、夜ごと貴船の社へお参りを続ける。やがて、頭に鉄輪をかぶり、そこに三本のろうそくを灯して、鬼の姿となって現れた。
私は、息をのんだ。夢の中の女の頭で揺れていた、あの三つの火だった。
けれど、鬼となった女は、恨みを晴らすことができなかった。夫は、陰陽師に守られていたのだ。女は、怒りと悲しみを抱えたまま、ひとり闇の中へ消えていった。
「あの女の人、かわいそうだったね」
帰り道、私がつぶやくと、千夏は首を振った。
「私はね、あの人を鬼にしたのは、旦那さんじゃなくて、あの人自身の苦しさだと思うんだ。恨みに心を全部明け渡しちゃったから、ほかのものが、何も見えなくなっちゃった」
それから、千夏は、私の顔をのぞきこんだ。
「紗季、最近、写真撮ってる?」
はっとした。私は、学生時代から写真を撮るのが好きだった。休みの日には、カメラを持って街を歩いた。けれど、健人と付き合いはじめてから、いつの間にか、週末はすべて彼のために空けるようになっていた。
私の毎日は、健人で、いっぱいになっていたのだ。だから、彼の小さな変化ひとつで、世界がまるごと揺らいでしまう。
その夜、私は、押し入れの奥からカメラを取り出した。そして、健人にメッセージを送った。
「責めるような言い方をして、ごめんね。最近、会えなくて、ちょっと不安だった。それだけ伝えたくて」
しばらくして、電話が鳴った。
「俺こそ、ごめん」
健人の声は、少し震えていた。
「実は、父さんの店が、経営がうまくいってなくてさ。夜とか土曜は、手伝いに行ってたんだ。心配かけたくなくて、言えなかった」
私は、スマホを握りしめた。疑っていたあいだ、健人は、一人で大変なものを背負っていたのだ。
「今度、お店、見に行ってもいい? 写真、撮らせて。お店の宣伝に使えるかも」
電話の向こうで、健人が、ふっと笑う気配がした。
次の土曜日、私はカメラを持って、健人の父親の店を訪ねた。商店街の端にある、小さな定食屋だった。
カウンターの奥で、健人が、慣れない手つきで皿を洗っていた。その隣で、髪の長い女性が、手際よく料理を盛りつけている。
あの写真の人だった。
「いとこの真由。店を手伝ってくれてて、あの日は、みんなで店の立て直しの相談をしてたんだ」
真由さんは、「健人がいつも話してる彼女さんですね」と、にっこり笑った。
私は、顔から火が出そうだった。あの夜、私が見ていたのは、写真ではなかった。自分の不安が描いた、もう一枚の絵だったのだ。
その日、私は、湯気の立つ味噌汁や、使いこまれた木のカウンター、健人のお父さんの、厨房に立つ背中を撮った。ファインダーをのぞくのは、久しぶりだった。写真を撮っているあいだ、私は、不安のことを、すっかり忘れていた。
その夜、また、あの夢を見た。
夜の川べり。白い着物の女が、ひとりで立っている。健人の姿は、どこにもなかった。
女が、ゆっくりと振り向いた。その顔は、鬼の面だった。
私は、近づいて、そっとその面に手をかけた。面の下から現れたのは、泣きはらした目をした、私自身の顔だった。
女の頭の三つの火が、ひとつずつ、静かに消えていく。
川の向こうの空が、白みはじめていた。
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