朝、目を覚ましたとき、喉の奥にまだ水の冷たさが残っていた。
部屋はもう明るくなっていて、障子の向こうでは鳥の声までしているのに、わたしの中だけが薄い水底に沈んだままみたいだった。夢の景色ははっきり思い出せない。ただ、古い橋の欄干と、黒い水のゆらぎと、耳もとに落ちた声だけが、妙にはっきり残っている。
――帰ってきたね。
誰の声だったのだろう。やさしかったような気もするし、確かめるみたいでもあった。
洗面台の鏡に映った自分の顔は、寝不足のせいか少し青白く見えた。
髪を耳にかけながら、わたしは昨日Animaに言われた言葉を思い出していた。
水の近くの夢を見たら、朝まで忘れないでいて。
忘れないでいる、ということは、忘れてしまうと困るものだということだ。そう考えると、わたしは無意識に、夢の残り香を逃がさないように息をひそめていた。
朝食の席で、母は焼き魚を皿にのせながら、「今日は出るの」と訊いた。何気ない声だったので、わたしも何気ないふりをして答えた。
「うん。ちょっと、町のほうを歩こうかなって」
「そう」
「水鏡橋のほうまで行ってみようかと思ってる」
その名を口にした途端、母の手がほんの一瞬だけ止まった。箸の先が皿に触れて、小さな音がした。けれど母はすぐに何でもない顔に戻って、味噌汁の椀をわたしの前に置いた。
「あのあたり、夕方は冷えるから。羽織るもの、持っていきなさい」
答えになっていない、とわかる言い方だった。わたしは少しだけ笑って、「うん」と返したけれど、その短いやりとりのあと、食卓の上に薄い膜みたいな沈黙が落ちた。
昼すぎに家を出ると、空は曇っていた。
晴れているより、こういう空のほうが宵待町には似合う気がする。
色を少し引いた町並みは、どこもかしこも昔のままのようでいて、細部だけがいつのまにか変わっている。商店街を抜けたところで、従妹の真帆にばったり会った。
「文花ちゃん!」
明るい声で駆け寄ってきた真帆は、母方の親戚の中でもいちばん屈託がない。
小さいころから、年の離れたわたしのあとをついて回っていた子だ。
今はもう高校を出て働いているのに、笑うと昔の面影がそのまま残る。
「帰ってきたって聞いたよ。もっと早く連絡してよ」
「ごめん。ちょっとばたばたしてて」
「文花ちゃん、そういうとこあるよね」
悪気のない言い方だったのに、胸の奥がちくりとした。わたしは曖昧に笑ってごまかした。
少し立ち話をしてから、なんとなく訊いてみる。
「真帆、水鏡橋って最近も人が行くの?」
「ああ、行くよ。夕方きれいだから、写真撮る人とか。川、そんなに大きくないのに、あそこだけ空がよく映るんだよね」
そこまで言ってから、真帆はふいに声をひそめた。
「でも、ひとりであんまり長くいないほうがいいって、おばあちゃんは言ってた」
「どうして?」
「なんかね、昔からそういうふうに言うの。呼ばれるからって」
呼ばれる。その言葉に、夢の中の声がまた耳の奥で揺れた。
真帆と別れたあと、わたしは町外れへ向かう道をゆっくり歩いた。
店の数が減り、人の気配も薄くなる。
風が古い家並みのあいだを抜ける音だけが、ときどき妙に大きく聞こえた。
途中、空き地のブロック塀の上に黒猫を見つけた。
金色の目が、まっすぐこちらを見ていた。昨日と同じ猫だと思った瞬間、猫はするりと塀を下りて、細い道の奥へ消えた。
追いかけるつもりはなかったのに、気づけば足が少し速くなっていた。
やがて、水鏡橋が見えた。
古い橋だった。欄干の白い塗装はところどころ剥げ、長いあいだ風雨にさらされてきたことがわかる。
川幅は狭いのに、水面だけが妙に深く見えた。曇り空の色を映して、鉛みたいな灰色をしている。風が吹くたび、その灰色が細かく揺れて、橋も空も町も、いっしょにほどけていくようだった。
わたしは欄干に手を置いた。
ひやりとした冷たさが、掌から腕へとのぼってくる。
その感触にふれた途端、胸の奥で何かがかすかに軋んだ。
笑い声。
白いものが揺れる景色。
誰かの背中。
――落とさないで。
そんな断片が、光の欠片みたいに一瞬だけ脳裏をかすめた。
けれど掴もうとした瞬間、頭の奥が鈍く痛んで、輪郭はすぐに崩れてしまう。わたしは思わず目を閉じた。
そのときだった。
向こう岸に、白いものが見えた。
最初は花かと思った。
川べりに白いごみでも引っかかっているのかと。
けれど次の瞬間、それは細い人影のように見えた。
白っぽい服の、後ろ姿。欄干の向こうに静かに立って、こちらを見ているのかいないのかもわからない。
わたしは息を止めた。
声をかけることも、近づくこともできない。
ただ、その姿が振り向きそうで振り向かない、その曖昧な気配に目を奪われていた。
風が吹いて、水面が大きく揺れた。反射が崩れ、欄干の影が流れる。
その一瞬、わたしは目を離した。
もういなかった。
向こう岸には、誰もいなかった。
胸がどくどくと速く打った。見間違いかもしれない。光の具合だったのかもしれない。そう思うのに、そう言い切ってしまうには、さっきの白さはあまりに生々しかった。
橋のたもとまで戻ったとき、草のあいだに何かが挟まっているのが見えた。
しゃがみこんで拾い上げる。古い写真の切れ端だった。
湿った土のそばにあったのに、不思議と紙そのものはそれほど濡れていない。
写っているのは、川辺か橋の近くか。背景はぼやけていてよくわからない。
ただ、画面の端に白い服の肩らしきものだけが映っていた。
裏返すと、にじんだ文字が途中まで残っている。
……ってる
待ってる、なのか。帰ってる、なのか。かえる、なのか。確かなことはわからない。
けれど、その切れ端を指先で持っていると、またあの夢の声が近づく気がした。
帰ってきたね。
その日はまっすぐ家へ戻る気になれなくて、気づけばまたあの路地へ足を向けていた。GoldenAnimaの灯りは、夕方の薄さの中で昨日よりも静かに見えた。
扉を開けると、鈴の音が低く鳴る。
Animaはカウンターの奥にいて、まるでわたしが来る時刻まで知っていたみたいに顔を上げた。窓際の男も、本を読む女も、今日も同じ場所にいた。何ひとつ変わらない店内のはずなのに、さっき橋で見た白い影の余韻が残っているせいか、ここだけが夢の続きの部屋みたいだった。
「おかえりなさい」
Animaがそう言った。
いらっしゃいませ、ではなく、その言葉だった。
わたしは言い返す前に、手の中の写真片に目を落とした。Animaはそれを見た。けれど、すぐには何も訊かなかった。
わたしが席につくと、彼女は温かなカップをひとつ置いた。その湯気が、橋の上で冷えた指先にふれるみたいにやさしかった。
「水はね」
Animaが静かに言った。
「隠すより先に、返すことがあるの」
わたしは写真片を握ったまま、顔を上げた。
「……今日、橋に行ってきたんです」
「そうでしょうね」
「誰かを見た気がして。でも、たぶん見間違いで……」
最後まで言いきれなかった。Animaは首を横に振りもしなかったし、肯定もしなかった。
ただ、その黒く澄んだ目で、わたしの迷いごと受け取るみたいに見ていた。
「見えたものより、思い出しかけたもののほうを大事にして」
その言葉は、ひどく静かだった。
なのに、橋の欄干よりも冷たく、わたしの胸の奥へ沈んでいった。
いい流れで第4話につながる章になったと思うよ。
次はこのままなら、第4話の詳細設計に進むのが自然かな。
必要なら続けて、そのまま組むね。

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