【連載】夢見町の案内人 ― 白藤の残夢 ― 第六話 欠けた夢日記

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朝、目を開けたとき、最初に視界へ入ってきたのは、膝の上のノートだった。

昨夜、古い箱の底から見つけて、布団に持ち込んだまま眠ってしまったらしい。薄いクリーム色の表紙はすっかり褪せ、角は丸く擦り切れている。端のほうにだけ、白藤の花房に似た淡い模様が、息のように残っていた。子どものころのものだとわかるのに、手に取るまでの間が、いつもより少しだけ長くかかった。

懐かしいから、ではない。
懐かしいというには、胸の奥が冷えすぎていた。

文花は布団の上で身を起こし、ひとつ呼吸を整えてから、最初のページをめくった。

はじめの数ページには、ひらがなの多い幼い字で、学校のことや給食のこと、好きだったお菓子のことが書いてあった。
字の大きさは揃っておらず、鉛筆の濃さもところどころ違う。
教室で育てていた朝顔のこと、母に買ってもらった赤い消しゴムのこと。たしかに、子どもの自分がそこにいた。

なのに、読み進めるほど、その子は少しずつ、こちらと別の輪郭を持ちはじめる。

数ページ先に、昨夜見つけた一文がまた現れた。

また、さかさのゆめをみた。 わたしじゃない子が、わたしのなまえでよばれていた。 こわくはなかった。なんかさみしかった。

子どもの字だった。
けれど、その最後の一行だけが、今のわたしの胸にも、ちゃんと届く距離にあった。

次のページには、もっと短い記述があった。

ゆめでさわったてが、つめたかった。 あさになっても、てのひらだけまだつめたい。 このゆめは、たぶん、のこるゆめだ。

文花は無意識のうちに右手を見た。
橋の欄干に触れたときの冷たさが、まだ皮膚の下に薄く沈んでいる気がした。

さらにめくる。
鉛筆の線が乱れたページに、こうあった。

あの子はきょうもはしのところにいた。 わたしのなまえをよぶけど、わたしじゃないみたい。 あの子は、わたしのかわりにかえれないでいる。

ページを支える指先に、知らない力が入った。

あの子。
橋。
帰れない。

それは今の夢と、あまりに近すぎた。
偶然と片づけるには、言葉の並びが整いすぎている。

文花は次のページをめくり、そこで手を止めた。

紙の端が、途中で途切れていた。

一枚だけではない。二枚、三枚と続いていたはずのところが、ごっそり抜け落ちている。破れ目はまっすぐではなく、ぎざぎざと走っていた。急いで裂いたようにも見えるのに、なくなっている位置は妙に正確で、あるまとまりだけが、きれいに掬い取られていた。

手前のページの最後の行は、文の途中で終わっていた。

きょうは、はしのところで あの子が

それだけだった。
その先がない。

抜けた向こう側に飛ぶと、話題は唐突に変わっていた。

きょうのおやつは みるくのあめ。 おかあさんが ふたつくれた。

子どもの文章だから話が飛ぶこともある。そう思おうとしたのに、それにしては切れ方がきれいすぎた。なにより怖かったのは、このノートをずっと持っていたはずなのに、文花がいままでこの欠けに気づいていなかったことだった。

自分の部屋の引き出しに眠っていたものなのに。
どうして、今日まで一度も。

昼前、文花はノートを閉じて台所へ下りた。
母はやかんの湯を急須に移していて、立ちのぼる湯気が、窓の光を半歩遠くしていた。

「お母さん」

声をかけると、母が振り向く。

「どうしたの」

「わたし、子どものころ……夢の話、よくしてた?」

問いかけた瞬間、母の目がほんの少しだけ動いた。
すぐに、なにも見ていなかったような顔に戻る。

「急に、どうしたの」

「昔のノートが出てきて。夢のこと、いっぱい書いてあったから」

母は急須の蓋をきっちりと合わせ、湯気の向こうで言った。

「あんたは昔から、考えごとの多い子だったからね」

その言葉は、こちらに角を立てない選び方をしていた。
ただ、答えの形をしていなかった。

「橋の夢とか、見てた?」

重ねると、母は今度こそ短く黙った。
流しの窓の外を、ひと呼吸ぶん見てから、視線をこちらへ戻す。

「子どもって、ときどき変な夢を見るでしょう」

それだけだった。

文花はそれ以上、訊けなかった。
問いつめれば、母はきっともっと上手に黙る。そう、わかってしまったからだ。

夕方、文花はノートを鞄に入れて、GoldenAnimaへ向かった。

扉を押すと、鈴が低く鳴った。店の中には、珈琲と古い紙の匂いが、いつもと同じ重さで満ちていた。窓際の男は今日も同じ席にいて、本を読む女も、昨日と寸分変わらない姿勢でページをめくっている。

ただ、その女が、文花の鞄に一度だけ目を落とした気がした。
ほんの瞬きの分だけ。

「いらっしゃい」

カウンターの奥で、Animaが顔を上げた。
白いカップの受け皿を指先でそっと整えながら、こちらを見る。

席につく前に、文花は鞄からノートを取り出して、カウンターへ置いた。
そのとき、Animaの視線が止まった。

ほんの一瞬。
けれど、止まったとわかるだけの間があった。

「これ……昔の部屋から出てきたんです」

Animaはすぐには手を伸ばさなかった。
表紙の擦れた角と、白藤の薄い模様を見てから、息を小さく落とすように言った。

「よく残っていたわね」

その言い方に、文花は顔を上げた。

「知ってるんですか」

Animaは答えず、湯気の立つカップを文花の前へ滑らせる。
白い湯気が、ふたりのあいだに薄く立った。

「子どものころの字って、ふしぎね」

彼女はノートではなく、その上に置かれた文花の手の方を見ていた。

「本人より早く、本人のことを知っているの」

文花は黙ったまま、表紙を指先で押さえた。

「途中のページが、抜かれてました」

そう言うと、Animaのまつげがわずかに伏せられた。

「……そう」

「子どものころのわたしが書いたんですよね、これ。なのに、どうして今まで気づかなかったのか、わからなくて」

Animaはすぐには返さなかった。
カップのふちに添えた指が、ほんの少しだけ止まる。

「気づかなかったんじゃなくて、気づかないようにしていたのかもしれないし、気づかせないようにされていたのかもしれない」

文花は思わず息を止めた。

その言い方は曖昧だった。
誰が、とは言わない。
それなのに、誰かがいるみたいだった。

「これ、読んだことありますか」

今度は、少しだけ踏み込んで訊いた。

Animaは、その問いにすぐ答えなかった。
店の奥で、ページをめくる音が、いつもより薄く響く。

やがて彼女は、視線を落としたまま言った。

「読み切れないものは、急いで読まないでね。残されているものほど、読まれる順番を選ぶことがあるから」

それは、こちらをいたわる言葉に近かった。
それでいて、入ってこさせない場所をきれいに残してある。
近いのに、手前で止めている。そういう声だった。

その瞬間、文花ははっきり感じた。
Animaは、何かを知っている。
少なくとも、このノートを、ただの古い日記だとは扱っていない。

それなのに、言わない。

窓際で、またページをめくる音がした。
背中をそっと押されたみたいに、文花はノートを鞄へ戻した。

帰り道、空はもう夕方の色になっていた。
商店街を抜け、街灯の下まで来たところで、どうしても気になって、もう一度ノートを開いた。

白い光の下では、昼に見たときには気づかなかった細部が浮かびあがる。

問題の破れた箇所をめくり、文花は眉を寄せた。
最初に見つけたぎざぎざの破れとは別の場所に、もっと薄い切り取りの跡があった。

今度のそれは、裂いたというより、刃物できれいに切り取ったように見える。
紙の繊維が、まっすぐに断たれていた。

ひとつではなかった。
ノートには、抜かれ方の違う痕が、二種類ある。

誰かが一度、破った。
それとは別の誰かが、もう一度、切り取った。

街灯の下で、文花の背筋を冷たいものが通った。

さらに紙を傾けると、抜かれたページの次に残っていた行の下に、強い筆圧の跡が浮いた。前のページに書かれた文字が、紙へ薄く食い込んでいる。

本来なら、もう読めないはずの痕跡だった。
それでも、斜めから光を当てると、ひらがなの形がかすかに見えた。

かえっていないのは

そこまでしか読めなかった。
その先がない。

文花は、しばらく街灯の下に立ち尽くしていた。
夕方の風がページを揺らし、紙の端が、息のような音を立てる。

帰っていないのは――誰。

橋の向こうの白い影か。
名前を呼ぶ、あの子か。
それとも。

ノートを閉じた瞬間、どこかで低く鈴のような音がした気がした。振り向いた先には、もう暗くなりはじめた道と、誰もいない角があるだけだった。

ただ、その角のいちばん深い影のところで、金色の目が一度だけ光って、すぐに消えた。

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