
気づけば私は、赤い暖簾の下がった小さな店の前に立っていた。
暖簾には、筆文字で「やげん堀」と書かれている。中をのぞくと、木の棚に、赤や黒や茶色の粉が入った壺がずらりと並び、鼻の奥をくすぐるような、ぴりっとした香りが漂っていた。
「いらっしゃい。辛いものをお探しかね」
奥から出てきたのは、前掛けをした白髪のおじいさんだった。
「……たぶん。何か、刺激がほしくて」
口にしてから、自分でも驚いた。三十一歳、事務職。毎朝同じ電車に乗り、同じデスクで同じ書類をさばき、同じ道を帰る。不満があるわけではない。ただ、毎日が、味のしないお粥のように感じられていた。最近は、コンビニで激辛と書かれたカップ麺ばかり選んでいる。
おじいさんは、ふむ、とあごをなでた。
「じゃあ、まずはこれを舐めてごらん」
差し出された小皿には、真っ赤な粉がひとつまみ。言われるまま指先につけて舐めた瞬間、舌が燃えた。
「からっ……!」
口の中が焼けるように熱い。額から汗が噴き出し、涙までにじんでくる。
「熱いだろう。でもな、それは本当に熱いわけじゃない」
おじいさんは、湯のみに水を注いで差し出してくれた。
「唐辛子の辛さってのは、味じゃなくて、熱さや痛みを感じる仕組みを、わざとくすぐっとるだけなんだ。体は『火事だ』と騒ぐが、本当は燃えてなんかいない。人はその安全な痛みを、面白がって楽しむんだよ」
安全な痛み。水を飲みながら、私は、最近の自分を思い出していた。激辛のカップ麺、夜中に観るホラー映画、目が覚めるほど苦いコーヒー。私は、毎日に足りない何かを、安全な刺激で埋めようとしていたのかもしれない。
「でもな」
おじいさんは、棚から七つの壺を下ろして、台の上に並べた。
「辛さだけを浴び続けると、舌は麻痺して、そのうちもっと強いのがほしくなる。それじゃあ、いつまでたっても満たされん」
七つの壺には、それぞれ札が貼ってあった。唐辛子、山椒、黒胡麻、陳皮、麻の実、紫蘇、青海苔。
「昔、この店の初代はな、唐辛子だけじゃなく、七つの素材を混ぜて売り出したんだ。体を温める唐辛子、しびれる山椒、香ばしい胡麻、さわやかな陳皮。辛さを、ほかの味と一緒に楽しめるようにってな」
おじいさんは、木のさじを私の手に握らせた。
「さあ、あんたの七味を調合してごらん。唐辛子をどれだけ入れるかは、あんた次第だ」
私は、さじを持ったまま、しばらく壺を見つめた。刺激がほしい。でも、それだけでは足りない。
唐辛子を、ひとさじ。そこに、山椒を少し。香りのいい陳皮を多めに。黒胡麻と紫蘇を、ほんの少しずつ。
混ぜ合わせた七味を、おじいさんは、湯気の立つうどんの上にふりかけてくれた。
ひと口すする。ぴりっとした辛さのあとから、柑橘の香りと胡麻の香ばしさが追いかけてきた。額にうっすら汗がにじむ。でも、さっきのように涙が出るほどではない。体の芯から、じんわりと温まっていく。
「……おいしい」
「だろう。刺激は、強けりゃいいってもんじゃない。自分にちょうどいい配合を知ってるやつが、いちばん毎日を楽しめるんだ」
おじいさんは、目尻にしわを寄せて笑った。
目が覚めると、口の中に、かすかに柑橘の香りが残っている気がした。
その日の帰り道、私は激辛のカップ麺の棚を素通りして、駅前の小さなスパイス店に入った。ずっと気になっていた、週末のスパイスカレー教室のチラシを手に取る。
いきなり人生を激辛にしなくてもいい。まずは、ひとさじの新しい刺激から。
夕食のうどんに、七味をほんの少しふりかけた。ぴりっとした辛さが、今日はなんだか、ちょうどよかった。
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辛い食べ物の夢が持つ本来の意味についてはこちらの夢占い記事で、良性マゾヒズムや刺激欲求、辛さの正体を明らかにした研究、七味唐辛子の由来についてはこちらの夢ことほぎ記事で、それぞれ詳しく解説しています。

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