
コツ、コツ、と窓を叩く音で、私はその夢に入った。
夜のアパートの部屋だった。窓の外は、晩秋の冷たい風。カーテンを開けると、ガラスの向こうに、親指ほどの大きさの何かが立っていた。
緑色の、丸みを帯びた甲冑。背中には、亀の甲羅のような盾。細い触角を兜の飾りのように揺らして、それは、うやうやしく一礼した。
「夜分に失礼いたします。わたくし、冬告げの騎士と申します」
カメムシだった。どう見ても、カメムシだった。
思わず後ずさった私に、騎士は困ったように触角を下げた。
「どうか、窓は閉めたままで結構です。ただ、お願いがございまして。この冬、あなたのベランダの植木鉢の陰を、宿としてお借りできないでしょうか」
「宿……?」
「はい。わたくしどもの一族は、昔から、冬の訪れを人々に告げる役目を担ってまいりました。雪深い土地では、わたくしどもが大勢で家を訪ねる年は大雪になる、と言い伝えられております」
騎士は、誇らしげに胸を張った。小さな甲冑が、窓からの明かりを受けてきらりと光った。
「冬を越すための暖かな場所を探して、こうして人の家を訪ねて回るのですが……どうにも、嫌われてしまうことが多くて」
騎士の声が、少しだけ沈んだ。
「わたくしどもの匂いのせいでしょう。無理もございません」
私は、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「どうして、あんな匂いを出すの?」
騎士は、ゆっくりと顔を上げた。
「わたくしどもが匂うのは、怖いときだけなのです。つままれたとき、押しつぶされそうになったとき。怖くて、どうしようもなくなったときに、身を守るために匂いを放つのです。そしてその匂いは、仲間たちへの『ここは危ない』という知らせにもなります」
怖いときだけ。その言葉が、胸の奥にちくりと刺さった。
職場の、隣の席の先輩の顔が浮かんだ。いつも言葉がとげとげしくて、何を言っても冷たく返される。私はずっと、あの人のことを、嫌な匂いのする人だと思って避けてきた。
でも、最近、先輩が上司にきつく叱られているのを見た。その日の午後、先輩の言葉は、いつも以上に鋭かった。
「……あの人も、怖かったのかな」
思わずつぶやくと、騎士は、静かに頷いた。
「匂いの強さは、怖さの強さです。とげのある言葉を放つ人ほど、心の中では、何かに押しつぶされそうになっているのかもしれません。もちろん、だからといって、何もかも我慢なさる必要はございませんが」
騎士は、触角をぴんと立てた。
「ただ、匂いの向こうにある怖さに気づけたなら、少しだけ、扱い方が変わるものでございます。わたくしどもを、つまんで潰すのではなく、そっと紙に乗せて外へ逃がしてくださる方がいるように」
窓の外で、風がひゅうと鳴った。夜空の端が、かすかに白く光っているように見えた。
「さて、今年の冬は、少し早く、少し厳しくなりそうです。どうか、温かくしてお過ごしください」
「……植木鉢の陰、使っていいよ」
私がそう言うと、騎士は、ぱっと触角を輝かせた。
「かたじけない! では、春が来るまで、静かにお世話になります。決して、匂いは出しませぬゆえ」
騎士は、もう一度深々と一礼して、ベランダの暗がりへと消えていった。
目が覚めると、窓の外は、薄い灰色の空だった。スマートフォンの天気予報には、「北国で初雪の便り」の文字が並んでいた。
その日、職場で、先輩はやっぱり不機嫌そうな顔でキーボードを叩いていた。私は、給湯室で淹れた温かいお茶を、そっと先輩の机の端に置いた。
「……なに、これ」
「寒くなってきたので。よかったら」
先輩は、少し驚いたように私を見て、それから、ぼそりと言った。
「……ありがと」
いつもより、ほんの少しだけ、柔らかい声だった。
帰宅して、ベランダの植木鉢の陰をのぞいてみた。そこには、小さな緑色のカメムシが、丸くなってじっとしていた。
冬の間、よろしくね。私は心の中でそう言って、そっと窓を閉めた。
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