
台所の窓から、夕方の光が斜めに入っていた。
母が流しの前に立っている。背中を向けたまま、腰のうしろでエプロンのひもを結んでいた。指先が、慣れた動きで蝶の形をつくる。けれど、結び目は少しゆるくて、母が鍋に手を伸ばすたびに、ひもの端がふらりと揺れた。
佐和は、それを見ていた。直してあげようか、と言いかけて、声が出なかった。
母は振り向かない。鍋の蓋を持ち上げると、湯気が窓の光をにじませた。ひもの端が、また揺れる。
ほどける、と思った。
そのとき、母が小さく笑った気がした。何がおかしいのか、佐和にはわからなかった。
――目を開けると、隣で眠る娘の寝息が聞こえた。四歳になった美緒は、布団を蹴とばして、片足を外に出している。佐和はその足に布団をかけ直し、しばらく天井を見ていた。
母が亡くなって、一年になる。
この一年、佐和はよく働いた。朝は五時半に起きて、弁当をつくり、美緒を保育園に送り、職場では誰よりも先に資料を仕上げた。帰れば夕食をつくり、洗濯物をたたみ、美緒に絵本を二冊読んだ。三冊目をねだられると、断れなかった。
ちゃんとしなければ、と思っていた。誰に言われたわけでもない。ただ、ちゃんとしていない自分を、どこかで許せなかった。
週末、実家の片づけの残りを引き取りに行った。母の部屋の押し入れから、平たい紙箱が出てきた。ふたを開けると、エプロンが一枚、たたまれて入っていた。
紺地に、小さな白い花の模様。佐和が子どものころ、毎日見ていたエプロンだった。
広げてみると、胸のあたりに、色の違う布で継ぎが当ててあった。すそには、うっすらと茶色い焦げ跡。腰のひもは片方だけ、途中から縫い足されて、長さが少し違っていた。
佐和は、それをしばらく手のひらに載せていた。
母のエプロンは、いつもきれいだと思っていた。母の料理はいつもおいしくて、家の中はいつも片づいていて、母はいつも笑っていた。そういうふうに、記憶していた。
けれど、手の中の布は、そう言っていなかった。焦がした日があった。破れた日があった。ひもがちぎれて、それでも捨てずに、縫い足した日があった。
その夜、佐和は母のエプロンを身につけて、台所に立った。
腰のうしろでひもを結ぶ。自分の背中は、自分では見えない。何度か結び直したけれど、蝶の形はどうしても少しいびつになった。長さの違うひもの端が、片方だけ長く垂れる。
鍋に湯を沸かす。窓の外は、もう暗い。
背中を、くい、と引かれた。
振り返ると、美緒がエプロンのすそを握っていた。
「ママ、これ、ほどけそう」
「そう?」
「むすんであげる」
美緒は、佐和の背中にまわって、ひもを両手でつかんだ。小さな指が、もたもたと動く。何をしているのか、佐和には見えない。ただ、ひもが何度も引っぱられ、ゆるみ、また引っぱられるのが、腰のあたりに伝わった。
「できた」
ずいぶん時間がかかった。
佐和は、手を背中にまわして、そっと結び目に触れた。蝶の形ではなかった。かたく、いくつも重なった、こぶのような結び目だった。たぶん、ほどくのに苦労する。
「上手じゃん」
そう言うと、美緒は得意そうに鼻をふくらませた。
その夜の夕食は、野菜を切って炒めただけのものだった。味噌汁は、少しだけ塩辛かった。美緒は、塩辛いとは言わずに、全部飲んだ。
絵本は、一冊だけ読んだ。二冊目をねだられたとき、佐和は「明日ね」と言った。美緒は少しだけ口をとがらせて、それから、あっさり眠った。
台所に戻って、エプロンを外そうとした。けれど、美緒の結び目はかたくて、なかなかほどけなかった。指先で少しずつゆるめながら、佐和は夢の中の母を思い出していた。
ゆるい結び目。揺れるひもの端。振り向かずに、小さく笑った背中。
あの人も、きっと、ちゃんとはしていなかったのだ。ちゃんとしていない日を、何度も、何度も重ねて、それでも毎日、台所に立っていた。
ようやく結び目がほどけた。佐和はエプロンをたたまずに、椅子の背にかけた。焦げ跡のあるすそが、蛍光灯の下で、少しだけ揺れた。
明日の朝、また結べばいい。上手に結べなくても。
こちらもオススメ
エプロンの夢が持つ本来の意味についてはこちらの夢占い記事で、ウィニコットの「ほどよい母親」やホックシールドの「感情労働」、聖書や割烹着にまでさかのぼるエプロンの歴史についてはこちらの夢ことほぎ記事で、それぞれ詳しく解説しています。


コメント